2012/01/28

豊饒の海

豊饒の海、本多の一生に接したのは先日25歳になったばかりの大学院生なわけだけれども、「暁の寺」、「天人五衰」はつらかった。

ちなみに「春の雪」は2011年の半ば、「奔馬」は年の瀬に読んだ。

 春の雪の美しさは尋常ではなかった、と思う。春の雪の記憶はすでに曖昧で、清顕・聡子という象徴的な言葉で私の中で保存されているためだろう。劇的でありながら、凡庸な最後が印象的だった。あのとき、この物語は私の中で「物語」から「真実」へと変化したように思う。そして観察者たる本多は私自身と重なり得た。

 奔馬は春の雪を読後、しばらく間をおいてから読んだわけであるが、ちょうど春の雪の記憶が曖昧になり、物語の上で本多の記憶が曖昧になるのと呼応して、ますます本多が私自身の振る舞いのように感じられた。勲の激情は25歳になる私には持ち得ないものなのか、本多に自分を映しすぎているためなのか、十分には伝わることがなかった。

 奔馬を読後に考えたことは、春の雪を読んだ後の熟成が奔馬を十二分に楽しむことが出来た要因の一つだということだった。転生は20年ごとに繰り返されるのであるから、次の物語もまた奔馬の記憶が熟成(単に忘却と変成であるけれど)されてからであることが望ましいと思って、およそ1ヶ月後に暁の寺を読んだ。
 が、暁の寺はつらい物だった。本多の老いと変質。年の瀬に読んだ奔馬との差はなんなのか。繰り返される仏教(輪廻)の要素、そしてインド。もはや本多は私の現在ではなくて、未来を予想する奇っ怪で醜悪な存在に思えた。最も、私は資産を持たないので、本多たり得ないけれど。そして転生はどんどんと本多から離れていくように感じられたのは、私が本多ではなくなった事と関係があると思う。本多はそれに気づいていないようだったが。

 そして、天人五衰。本多の老いが感じられて私は天人五衰を暁の寺読後、すぐに読んだ。待てなかったのは、怖かったからかもしれないし、それは事実、そうだったように感じる。
 そこには老人の姿があった。本多は転生が自分のまわりになくてはならないということをなぜ信じていたのだろう?暁の寺の最後で感じた「うわごとの欠如」から私と本多の乖離は大きくなるばかりであった。ただ、本多と本多の身の周りに起きることを見届けなければならない、義務感の様のものを感じて読んだ。が、つらい。天人五衰には必要に、執拗に、老いというものが描かれていた。本多は確実に年をとっていた。あれだけ本多に自己を重ねていた分だけ、それは恐怖だった。
 読後、あまりの衝撃に今はどうしようもなくうちひしがれているのだが、透は本多の転生ではないかと思えた。生きている人間が転生するというのも滑稽な想像かもしれないけれど。最後は救済であるように思える(思いたい)。ただ、無慈悲な救済だと思うけれど。また、どこか純粋さが欠けていった本多への罰のようにも感じる。そしてやはり本多の人生は真実ではなく、物語だったのではないか。

私の中での本多の存在の真実性は最後に崩壊の危機に立たされたが、やはり、本多は存在したと思う。夢であっても。




三島由紀夫の作品は好きであるとともに危険な香りがする。時が経てば絶対に赤面する文章を書かせる魅力とはなんなのだろうか。

ぜひ皆様も三島由紀夫作品を手に取ってみてください。
まったく、こんなことしてたので、次の作品の作成が遅れています。ごめんなさい。

2012/01/09

ととも マミゾウの眼鏡 【後書き】

さて、久々の「とともシリーズ」の新作でした。


 本作を作るきっかけはマミゾウを登場させたいな、という思いと、眼鏡を描くのが面倒くさいな、という思いです。なんと不純なのでしょう。後はtwitterで、ヒントを頂いて本作のアウトラインができました。ですから、本作でなにか伝えたいテーマがあった訳ではありません。まさに「ととも」シリーズらしいというか、なんでもない幻想郷の一出来事です。これでは新聞にもなりそうにないですね。

 マミゾウを登場させるにあたり彼女についていろいろ考えてみたのですが、化け狸ということでつかみ所の無い性格なのではないかなぁと思いました。そして人間との関わりが深いですから、人情味もあるだろうと。動画ではわりあいつかみ所のない性格を描けたのでは・・・ないでしょうか。あと、ヌエの表記がぶれぶれだったり、UFOになったりするのはヌエの実像があいまいであることを表現したかったのであって、まちがえている訳ではありません。本当はニトリに化けているシーンも考えたのですが、さすがにややこしすぎるのでやめました。後、ヌエもマミゾウと同じ様に、自由なつかみ所のない性格をしています。ニトリに名乗る所でなぜかグラビア風なのは、思いつきでニトリを惑わそうとしたためですが、まったく効き目がなかったので、次のシーンでは少々へこんでいます。マミゾウは大人でなにを考えているのかよくわからない、どちらかといえば紫タイプの性格ですが、ヌエは小さい子供がなにを考えているのかよくわからないようなタイプの性格かなぁと思います。
 結局、眼鏡を二つ買う訳ですが、ひとつはマミゾウが自分で買った以前と同じようなものですが、もうひとつはヌエが選んでくれた眼鏡です。どんな眼鏡なんでしょうか。最後にそのシーンを描く予定だったのですが、やめました。ヌエは子供っぽいところを残しているので、ややセンスがずれている様に思いますので、もしかしたら「変な」眼鏡かもしれません。ただ、正直者の星が最後に「素敵な眼鏡」と表現しているので、似合っていることは間違いないと思いますけどね。

 今作はthe last incident のような重たい雰囲気とは逆の明るく、朗らかな幻想郷の日常を描きましたが、ちょっとだけ、妖怪に関する考察が含まれています。お気づきの方も多いでしょうが、動画の1:25の当り、眼鏡が無いとおちつかない、とマミゾウが発言しています。ニトリとのやりとりでも「妖怪だからこそ必要だ」と述べています。これは妖怪は肉体的には不可思議な生き物であって、肉体的な能力というのは差こそあれ、自分で制御できるだろうという考えから来ています。目がわるい妖怪というのは、本当に目が悪いのであって、眼鏡で補正が効くような次元ではないと思うのです。なにかを犠牲にしてちがう何かを得ているのが妖怪ではないでしょうか。マミゾウの眼鏡というのは、目が悪いからではなく、「人間とのやりとりができる知性」のようなものを表していると考えました(ないからといって知能が下がるというような事は古い妖怪ですからないと思います)。眼鏡をかけて人間に化けたりして高利貸しを行ってきた過去と関わるためにないと落ち着かない、そういった事だと思います(霖之助は半分人間ですから、人間と同じ様に視力を補うために必要)。ちなみに、天狗の帽子は天狗社会に属しているという証だと思うので、前回、「文の取材 秋」で文もハタテも帽子をとっていたのは、個人として接するためだと思います。

服装は変えても、ゆずれない「なにか」、自分を規定する「もの」をもっているのが妖怪という存在なのではないかなぁ、そう思っています。

2012/01/01

あけまして、おめでとうございます

新年、あけましておめでとうございます

2011年は本当にたくさんのことがあった年でした。たくさんのことが起き、たくさんのことを学んだり、思い出したり、考えたりした年だったと思いますが、また、いろいろな事象にとらわれて、なにか、忘れていた物があったのようにも思います。

2012年は平穏な年になって欲しい、そう願っています。そしてニコニコ動画でいろいろな動画が楽しめる一年になるよう、私も東方手書き作者の一人として「李花尺」らしい作品を投稿したいと思います。


皆様にとってもよい一年になりますように。
そして、李花尺をよろしくお願いします。

あけまして、おめでとう!