2014/03/29

東方登場人物俯瞰

どうも、春の陽気にあったまっております、李花尺です。

一気に春めいてきましたね。先日は久しぶりに天気が良く、一気に暖かくなりました。堅かったコブシのつぼみもずいぶんとゆるんで、咲き始めましたよ。
 さて、今日は私の中の東方登場人物の性格を俯瞰してみました。各人につき数十秒も考えていないので、厳密なものではありませんよ。色は私の中でのイメージカラーです。カラーの領域が大きいキャラクターは、いろんな考え方をする人物であると考えてください。逆に領域がちっさいキャラクターは芯が座っているか、あるいは私の中でどういう心の動きをしているか捉えられていない人物です。・・・いない人物が居るのはナイショですよ。

 縦軸は思慮深さと無垢さをとっています。思慮深い側に偏っている人物の発言はその言葉の後ろにいろんな考えが潜んでいます。無垢側に偏っている場合は、直情的であるという意味合いです。
 横軸の連続的・刹那的というのは、時間のとらえ方です。連続的になればなるほど、自分の過去を振り返ったり、過去と未来のつながりの中に自分がいることを意識したりすることが多いことを表します。逆に刹那的になると、「今」が重要であることを意味しています。

 自分でもつくっていて笑ってしまいましたが、紫色のイメージのキャラクターが第一象限に固まったのは何故でしょう?後、これは私の中で「そういうものだ」という考え方があるので、あたりまえなのですが、秋姉妹・古明地姉妹は原点対称、フランドール姉妹はx軸対称になってますな。フランドール姉妹も原点対称かなになるかと思っていたのですが、よく考えてみるとそうでもなかったです。確かに、秋姉妹・古明地姉妹は「でこぼこコンビ」な印象が強いですが、フランドール姉妹は「似たもの同士」な印象が強いですね。これも当然ですが、似たものは似たとこにきますね。「文・はた」ペアとか、「諏訪・神奈」コンビとか。もちろん、意識してそこに配置したわけですから、当たり前です。
 さて、それ以外はほとんど意識して作っていません。例えば、幽々子と幽香は原点対称の位置にありますが、これは偶然です。でも髪型にてますし、お互い花に縁がありますね。映姫さまvsぬえもまたおもしろそう。・・・これって、物語を造るときのなにかの参考になりそうな予感が、今更しています。軸を変えて作ったらまた違う関係を掘り起こせそうな気もします。

2014/03/22

後書き 彼岸にて

久々の動画投稿となりました、李花尺です。


 久々かつ制作時間も動画の尺の割にはかかったので、前半と後半で若干違うタッチになってますが、きにしない。でも後半は良い感じに勘が戻ってきたのではないでしょうか。ちなみにG線上のアリアをBGMとし選んだのは拙作、巡るは季節を制作中に思い出したからです。なんとも不思議な悲しさをもつ曲ですね。


 「彼岸」をテーマにして描くのは2度目でしょうか。本作には華仙が世話をしていた親猫が、子供を産んでそれで体を崩して、そのまま・・・というのが背景にあります。私素朴に猫や犬といった人間に深い関わりをもった生き物というのは単なる畜生ではないのではないかなぁ・・・と思っています。ですので、また逢えるといういう小町の言葉は単なる慰めの文句ではない、と思いますよ。小町についてですが、いつのまにやら彼岸の木陰で童謡や民謡を口ずさんでいる印象が強くなってしまいました。今日はかの猫にあって、そこでいろんな話を聞いて、子守歌が頭の中に回っていたのでしょう。竹田の子守歌自体は、ちょっと寂しい雰囲気が好きです。歌の云われは暗い時代を背負っていますけど。
 小町は感情の起伏が徐々に減衰していく妖怪達・同僚達を知っていると思いますし、どちらかと言えば達観した側の存在です。仕事柄、そうなっていったのだとも思います。一方で華仙はまだ「そちら側」にはいっていないのではないかと思います。それに、仙人というのは死にたくないという、いかにも俗っぽい理由を達することを願った人達の姿だと考えれば、「そちら側」に行きつくことはまた別ではないかなぁと思ったりします。華仙自身も、それを願っているとは思えませんし。彼女は動物と暮らしているようですが、動物が上手く描けるようになったら彼女の生活も描いてみたいですね。きっと「俗っぽい」感じだと思います。

 

 それにしても復帰作がずいぶんとブルーな作品というのも、なんというか、我ながら変なヤツだと思います。ま、今に始まったことではないのでお気になさらずに。さてさて次は誰を描きましょうか・・・

2014/03/16

印象派

どうも、春の陽気にさそわれてそぞろ出てきた李花尺です。


今日は「光の賛歌 印象派展」@京都文化博物館に行ってまいりました。

「印象派」という名前は、非常にわかりやすく、そして引きつける言葉ですね。我々の周りに存在する「物質」の総和としての世界を写し取るのではなくて、それを捉えた己の中の世界を描くという画家の立ち位置がよく現れている言葉だと思います。私は目が悪いのですが、眼鏡を外してみる世界というのはまさに印象派の絵画のような世界です。今回の展覧会にもモネが晩年、目を病んだ後の「睡蓮」が来ていましたが、それはモネが人生の終盤に見た世界そのものなのでしょう。
 印象派の絵画の、写実的な絵画とは違うなんとなく優しい雰囲気が好きです。なだらかな丘、運河にうつる並木の影・・・牧羊的な風景の絵画は優しい印象ですね。また、今回はノルマンディーの海岸を描いた作品も多く展示されていたのですが、波の荒々しさもうまく捉えられていて、さすがだと感じ入った次第です。私はこれまで「ほわんとした」印象派の絵画しか知らなかったのですが、今回はそれとは違った作品を見ることができて良かったです。

 一方で、絵画そのものに引き込まれることはあまりありませんでした。強烈な絵画は人を引き込む様な力があると思っているのですが、印象派の絵画というのはそのあたり、少し淡泊なのかもしれません。もちろん、淡泊だから駄目だというわけではないですけどね。もしかしたら、ヨーロッパの風景に馴染みがあまりないものですから、郷愁感と言いますか、そういったものが喚起されなかっただけかもしれません。

 たまには絵画鑑賞もいいものですね。でも、そんなことをしていたので、作品の投稿はまた来週以降にずれこみます。

2014/03/08

近況報告 復活(?)のお知らせ

どうも、ご無沙汰しておりました、李花尺です。


 さて、ここのところ少し近辺が落ち着きまして、余裕が出てきました。とはいっても以前ほど時間を取ることは叶わないですが。
 現在、ひさびさに「ととも」シリーズを制作中です。ただ、久々すぎて(といっても半年程度ですが)ちょいと手間取っていますので、投稿は3月の半ば位ではないかと思います。

 休業状態からは復帰しますが、まずは暖機運転、という所でしょう。それではまた。