2012/07/28

巡るは季節 最終話 【後書き】

さて、なんとか形にすることが出来ました。実を言うと、動画の6分あたりまでは7月の初頭には完成していました。が、最後をどうするかを延々となやみまして、結局、7月のおわりまで引っ張ってしまいました。

で、最終的に至った結論ですが、「人間(=霊夢)と妖怪の時間軸は違う」です。それを象徴するのが、木(椿)を植える場面です。同じ季節がやってきても、椿は年々大きくなっていく(そして自分自身は衰えていく)のが非常に大きな意味を持つ時間軸に人間は生きています。ですが、紫はもっと大きな時間軸、霊夢の生まれ変わりを100年、1000年という単位で待つことができる時間軸で生きています。あるいは、荒れ地に苔がはえ、土が生まれ、そして木々が生い茂るまでを感じる事が出来る時間軸です。紫がちょっと寂しそうなのは、人間というものが自分とは違う時間軸に生きている事を感じているからだと思います。

なぜ椿なのか?  これは特に理由はなくて、単に私が椿が好きだからです。庭に植えるなら好きな木を植えるでしょう?まぁ、花が落ちる描写がしやすいという理由も多少はありますが・・・

さて、霊夢はまた生まれ変わるのか?  私は生まれ変わると思います。ただ、3つのほくろは無いと思います。霊夢によって否定されましたから・・・。紫は「ほくろをもつ」という呪いがとかれたので、自身におもねる事の無い、美しいもの(それがたとえ初代巫女から続く霊夢と似た人間で無くても)を素直に愛する事が出来る様になったと思います。ですから、最後の「形を変えて、また、きっと逢える」というのは、初代〜霊夢までの3人の巫女との決別を意味するのかもしれません。ですが、霊夢の形見ともいえる家と椿からはまだ離れることができないでいるので、また、きっと巫女として逢えることを願っているのかもしれません。

で、結局、霊夢と紫はどうなったのか?  描かなかったので(描けなかった)、皆さん、考えてください。

今回は三島由紀夫作、「豊穣の海」を原作にしました。これは輪廻と夢の物語で、非常に面白く、人間というものが非常に巧みに描かれています。未読の方は是非、一読してみる事をお勧めします。そういえば数年前に妻夫木さんが主演かなにかで豊穣の海 第一部「春の雪」を映画化してましたね・・・見てないですが。



さて、全7話にわたっておつきあいくださいましてありがとうございました。
また、本シリーズではニコニコモンズの素敵な音源を積極的に利用させてもらいました。音源をコモンズに投稿してくださった方々に、この場を借りて御礼申し上げたいと思います。ありがとうございました。

また、次回、お会いしましょう。

4 件のコメント:

  1. 「また季節が巡っても、時は過ぎている」
     何故この物語が「巡るは季節」なのか、このセリフを見てなんとなくわかったような気がしました。変わるものと変わらないもの、妖怪と人間の対比、様々なものが込められているように思いました。
     実を言うと今回の話は最初から期待していました。それは再生数などとは関係なく、「長い時間をかけた人々の出会いと別れ」というテーマが個人的に好きだからです。一般文芸やSF・ファンタジーなどでは馴染み深いテーマなのですが、東方手書きでは年齢層や成熟性もあってそういったものはうけないと感じていました。また、そういう書き手もいないだろうと。しかし李さんの「霧の大河」を見て、これはこの方向性を期待していいのではないかと思いました。そして今回の作品のあらすじを見た時、ついに待望の作品が来たな、と予知めいたものを感じたのです。全て物語を見終えた今としては、やはり予知は当たったと言えるでしょう。今回の作品は情緒とともに独特の「緊張感」を感じました。身につまされるような、昔に置いてきた思いを喚起されるような不思議な気持ちです。それは物語の内容だけではなく、キャラクターの仕草や表情、あるいは演出の影響もあると思います。個人的には紫が紙の上に墨汁を点々と落とすシーンが好きです。一瞬の心のゆらぎを捉えた演出と言えるでしょう。そしてベタですが最後の椿のシーンはやはりじん、と来るものがありました。
     この作品では紫は惑う人物として書かれていましたね。霊夢の方が飄々としているというか、割り切っているというか…。そのせいか紫に人間臭さを感じて、主に自分は紫の方に感情移入していたように感じます。紫は最後でも惑っていましたね。そこもまた人間臭くてすごく好きです。死に関わる物語は殆どの場合、残されるものと残していくものについて書かれていると思います。概ねは残されるものの物語ですね。中には残していくものについても深く書かれた物語もあります。しかしこの「巡るは季節」はもう一歩先に行った、残されるものの・残していくものの関係・心理を書いたものだと思います。しかも出会いは巡り、繰り返す。それも日常に紛れた物語の中で。後半の霊夢はずっと縁側に座っていて、ああ、李さんの物語はブレないな、日常の物語だなと妙に安心してしまいました。
     すいません、今回も長くなってしまいましたw。長さだけでブログに弾かれるんじゃないかと怯えておりますw。なんにせよ、今回も素敵な時間をありがとうございました。最近はやや時間がなく東方手書きもあまり見ておらず、「時間がないけれど見なければ…」といった体で動画を見てしまうのですが、李さんの動画は始まった瞬間意識を引きずり込まれて気づいたら何度か見てしまうという…。こういう作品に「東方」という形で出会えたことは、とても幸せだと感じています。
     次回作もとても楽しみにしています。
     それでは、また。

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    1. コメント、ありがとうございます。

      この物語を描くにあたって、基調となっているのは人間と妖怪の違いです。以前(ゾンビ禍)もこの人間と妖怪の違いというものをテーマに取り上げました。東方で物語を描いていく時、避けて通れない主題ですし、いろんな切り口がある主題だと思っています。巡るは季節というタイトルは、最後の台詞と対応したものになっています。むしろ、この言葉をもとにして、タイトルを決めたと言ったほうが正確でしょう。人間と妖怪の間には最後には生きる時間の問題が横たわってきて、それを超えたつながりというのがどういったものになるのか…を描けたらと思っていました。

      私も時間軸の短い作品よりはより「大河」的な、時間軸の長い作品が好きなので、こういった作品を作るに至った訳ですが、もっと時間軸の長い作品が増えると良いですね。私自身も、人の作品を見たいですから。人気投票のアンケートの結果をみると、大学生ぐらいが多い訳で、そうするともっと文学ベースとかの作品があってもいいと思うのですがね(ニコニコの東方を支えている年齢層と人気投票の年齢層は違うでしょうけど)。

      墨滴が落ちるの場面、あれは私もお気に入りです。が、実は、あれはもっと「動画」として表現したかった場面でもあります。私の脳内では、「ちょっと小言をいってくる萃香にたいして当てつける様に紫が背を向けて筆を走らせている。でも、萃香のいう事は正しくて、つい筆が止まってしまい、明治の巫女を失ってしまったことも含めていろんな感情が涙の代わりに墨滴が落ちた」という場面でした。ですから、筆が動いている状態から、筆が止まり、墨滴が落ちる、という「動」と「静」のきりかわりがある場面だったのです。椿の場面は今回、初めてBGMにあわせて台詞・作画を調整するということをしました(これまでは台詞・作画にあうようにBGMをきりはりしていたので)。

      今作では霊夢よりも紫の方が人間臭いのは紫が霊夢を愛しているからです。そして歯切れが悪いのはたくさんの葛藤を持っているからです(魔理沙に言わせれば純情ですけど)。好きだと言わないのは、否定されるのが怖いから、愛していると言わないのは、身勝手だから。霊夢にはこれまでのように急に消えてほしくないがために、霊力を使い果たさせ、その代償として触れる事さえ叶わない自分はいったい何がしたいのか・・・?紫はそういった割り切る事の出来ない感情の渦の中にいるのだと思います。

      たしかに霊夢の代になってからは、縁側で物語が完結していますね。自分では気付きませんでした。私自身が縁側という場所が大好きなので・・・。いつか縁側のある家に住みたいですね。

      見返してもらえると、作者冥利に尽きますね。次回はとりあえず、「文の取材」番外編・冬を作ろうかな、と考えています。そしてもし、また時間軸の長い話をつくるなら・・・今度は未来に向かって時間軸をのばしてみたいですね。今は未だ、よい思案はないですが。

      次回作ものんびりとお待ちいただけたら幸いです。
      では、また。

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  2. どうもHIDEKです 完結お疲れ様でした こんかいの作品も楽しませていただきました テーマと解釈が李花尺さんらしく深く静かなとてもいい物語ですね
    俺も紅楼夢の原稿が終わったら 「文の取材」のような感じの作品をつくろうかと画策しています ニコニコでみかけたらよろしくおねがいします

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    1. コメント、ありがとうございます。

      楽しんで頂けたようで、こちらもうれしい限りです。
      ニコニコに投稿される予定ということですので、そちらも楽しみにしております。

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