2013/06/08

週末雑感 物語の手法


どうも一週間ぶり、李花尺です。
色の名前が一段落ついて、ちょっとのんびり落書きをしています。

さて、今週は物語の作り方の話でも。
 もちろん、正解がある訳ではなくて、これまでもいろんな手書き作者さんの手法が紹介されていますが、それぞれが一つの解だと思います。例えば、東方見聞録というサイトには「制作の秘訣」が述べられています。なるほどなぁと感心するばかりですね。有名でしょうからご存知の方も多いと思いますが、面白いサイトですから、まだの方はのぞいてみると発見があるかもしれません。
 で、私はこのブログでちょくちょくとそれらしいことを書いてきたと思うのですが、なにぶん漠然としていると自分でも感じますので、すこし体系だってお話したいなぁ・・・というよりは自分で一度言葉にしてみようと試みたいと思います。

着想・構想

物語の構想にまず必要なのは、「組み合わせ」を作ることです。「東方」というカテゴリーと「何か」を組み合わせる事からはじまります。その「何か」の意外性が最終的に評価されるか否かのポイントになってくると思います。では「何か」をどこから引っ張ってくるのか。それは作者の日常でもいいですし、読んだ本でもいいですし、辞書を引いて適当な単語を探してもいいです。ちなみに私はよく一つの(あるいは複数の)言葉から物語の構想を始める事がよくあります。いわゆる物語のキーワードを設定してそれを軸にして物語を紡ぐ、というやり方ですね。「何か」を選んだらあとはそれに適当な登場人物の核(主人公)を決めます。ここは「べた」な組み合わせでも良いでしょうし、あるいはあえて正反対な組み合わせでも良いでしょう。
 「何か」をあえてどこかから引っ張ってこない方法もあります。例えば、東方の登場人物の設定を掘り下げていき、その設定のもつ意味を考える方法です。すなわち、まずは主人公を決めて、その主人公に内在する「何か」を探していくという方法ですね。結局、組み合わせが必要なことには変わりがないので先に挙げた方法と本質的には同じといっていいでしょう。

制作

 物語の核となる言葉と人物が決まったら、実際に会話を組み立てていきます。下敷きとなる物語がある場合でも、言葉から物語を作る場合でも、共通するのは登場人物にらしさを与える事が大切だと思っています。その「らしさ」というのはどこからくるかですが、私は「作者」だと思っています。当たり前なのですが、作者が人物になりきって、そこで会話をするというのが私の物語作成の手法です。二次創作という性格上、原作・様々な作品から作られたキャラクターのイメージというものが「外」に存在します。が、それを意識し過ぎると、そのイメージに引きずられた言葉しか出てこなくなります。原作とは別に下敷きとなる物語がある場合でも同じ事です。もちろん、完全に下敷きをトレースするのもありですし、パロディとして完成度を高めるということとは別の話です。で、作者がその人物に「なりきる」わけですが、実際のところはなりきるというよりも、自分のなかの一部を切り取って、その人物とするというほうがより正確な表現になると思います。もちろん、登場人物がすべておなじ李花尺かというとそうではなくて、より感情的な李花尺・より理性的な李花尺、理系な李花尺・文系な李花尺など、自分の中のどの部分を強調するかによって違います。一つ前の会話に対して、置かれている状況に対して複数の考え方をすることで、登場人物たちの発する言葉は自ずと違ってくるのです。
 どうしたらそういったことができるようになるかは知りません。いろんな考え方を身につけるにはいろんな人にあったり、いろんな本を読んだりするしかないでしょうね。

 で、実際にどうやって物語を作っていくかですが、例えば、登場人物と「なにか」をつなげる端的な会話、あるいは発言を一つ考えます。そしてそれが自然と発せられるような状況を考えます。そしてそこでの自然な会話を考えます。これが一つ目。もっと単純に、「なにか」を念頭に置きながら、当たり障りの無い状況(あるいはちょっとした事件)から登場人物に適当な会話をつくり、そのなかで「はっ」とする言葉が出てくるのを待ちます。これが2つ目。基本的にはこの2つの手法を用いて物語を作っています。主人公以外は、その時に描いてみたい人物を適当に選んでいます。あるいはよくある組み合わせ、無理の無い組み合わせを採用します。そこは外の設定に素直に従うことが多いです。この「無理のない」というのはひとつの目安ですね。
 私の場合、下書きがあるといってもそれはストーリーの流れを拝借するという意味ではないので、基本的には物語の展開は自前です。とある会話・発言が先にある場合は少なく、あっても物語にひとつぐらいです。ですから、つながりのない会話・発言のセットをつないでいくという展開手法はあまり採用していません。ですから、最低限の設定と背景と状況から適当に会話が広がって、人を巻き込んで、という展開手法をとっています。
 そしてある意味致命的なのが、面白くするという努力をほぼ放棄していることでしょう。面白い物語というのは、抑揚があってしかるべきである(例えば障害があってそれを乗り越えるべく努力する)と考えるならば、あまり適当な作り方とはいえないかもしれません。ですが、不意にだれかを会話に参加させることは可能ですし、ふと目をやった先に花があってもいいかもしれません。小さな抑揚の種は世界に無限にあって、それを拾えば、そこには小さな花が咲いて、それを喜ぶ人は多少なりとも存在すると私は思っています。



つらつらと書いて来ましたが、あまり体系だって説明できてないですね。というよりも書いてみてわかったのですが、どうやら体系だった理論にもとづいて物語を作っているわけでは無さそうです。方法論を学べば物語ができるか、といわれたら首を傾げます。もちろん、「伝わる」かどうかは別でしょうし、そこには一定の法則があるのは間違いないでしょう。そういった書籍を読んだことがないので分かりませんが、結局、こいつはよくわからんまま、物語をつくってるのだなぁと思ってください。

長い文章を全否定する言葉で締めるあたり、いけすかないやつですね。

2 件のコメント:

  1.  李さんの物語の作り方が少しだけ見えたような気がします。こう見るとキャラクターの捉え方がよくある二次創作とはかなり違いますね。キャラ、というよりはつながりや関係性で人物を捉えているように思います。
     最近にひまるさんのニコニコ生放送を時々見ているのですが、マヨヒガがリアルに存在するための舞台設定を本気で考えていて、こういうファンタジー的思考で二次創作をやっている人もいるのだなぁ、と関心させられました。にひまるさんの生放送は面白いので機会があればぜひ!李さんの生放送も見てみたいなぁ…。

     最後に特に批判的意見というわけでもないんですが、李さんの作品が「面白い」というものを放棄している、とは自分は思いません。抑揚があって緊張感があって最後までドキドキしながら楽しめる、もちろんそういう作品も素晴らしいですが、それだけが「面白い」ではないと思います。新藤兼人監督の映画「裸の島」はほとんどのシーンが水を運ぶシーンで、セリフもほとんどありません。でもラストの一瞬の心理的動揺に、それもほんのささいな部分に感動させられます。それまでのある意味で抑揚のないシーンはすべてそのための布石だと言っても過言ではありません。でもこの作品は自分の中では間違いなく「面白い価値ある作品」だと思っています。もしかしたら「面白い」という言葉の認識の違いというだけなのかもしれませんが、自分は李さんの物語のあり方はとても面白いと感じています。李さんの思う良さをこれからも追求していってほしいですね。

     余談ですが新藤兼人監督は去年100歳で亡くなられました。99歳まで映画を撮ってました。羨ましい限りですね…。

     長文失礼いたしました。それでは!

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  2. クズマさん

    ニヒマルさんの生放送ですか・・・なるほどそれは気になりますね。こんどお邪魔してみることにします。私の生放送は・・・う〜ん、期待しないでください。作業環境が古いので厳しいと思います。もちろん、たんなる雑談ぐらいなら可能かもしれませんが・・・。

    面白いを放棄しているという風に書いた、それに対して違うんじゃないの?と仰ってくださることは嬉しいことです。私自身、自分の作品を面白くないと思っているかといったらそんなことはなくて、少なくとも私は自分の作品を面白いと思ってます。でもそれは私自身にとっての話で、人を楽しませようというエンターテイメント性を明瞭に意識して作っているわけではない、そういう意味合いがつよいですね。ですから、あのような書き方をしました。クズマさんが仰るように「面白い」にはいろんなとらえ方があるので、私のとる手法で「面白い」と感じてくださる人がいることは間違いがないでしょうし、クズマさんのような方がいるから、私も続けていけるのだと思います。

    新藤監督の「裸の島」、私は見ていません。今度、ツタヤで探してみたいと思いますがあるかな・・・? 99歳まで映画をとる人生というのはすばらしいですね。そう、ありたいものです。

    では、また。

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