2013/06/29

後書き 天子、神社へ行く


どうも、李花尺です。
先週はすいませんでした。作品作りに夢中だったものでして・・・
そのおかげで(?)ニコ童祭に間に合いましたね。といってもいつもの通りの作品ですが。


さて、後書き。
今回はこれと言ってテーマはありません。強いて言うならば、「普通の日常の中に幸せがあるのかもしれない」ということでしょうか。後は一度比那名居天子を描いてみたかったので、彼女に登場して頂きました。

天子は描いていてずいぶんと可愛らしいなぁと思いました。私は「達観した」美人や、「純粋で無垢な」妖精を描くことが多いですから、天子はずいぶんと「人間くさい」面が強く出ていると思います(それでもまだまだえぐみはないですけど)。彼女ぐらいの性格が親しみやすいかもしれませんね。みんな、淡泊すぎるのかもしれません・・・。描いている人が淡泊な感じなので、仕方がありませんが。

描いていて感じたことは、「また性懲りもなく日常を描いてるな、こいつ」ということです。まったく、縁側とそれにつながる六畳ぐらいの部屋と土間がある家がどれだけ好きなんでしょうね。自分でも笑っちゃいます。でも、こんな普通の会話が描いていて楽しいんですよね。先にも述べましたが、こういうなんでもない日常の中に幸せがある、と私はぼんやり思います。

なんとなく寂しい雰囲気で終わりましたが、でも賑やかな人が去った後っていうのは、あんなものでしょう。別にそれほど深刻な事ではないと思います。「やれやれ」と思う反面、ちょっと寂しい、そんな小さな感傷が霊夢にあったのだと思います。


さて、次は雨を題材にした物語でも作ろうかな・・・と考えています。「東方百人一首劇」というシリーズもそろそろ始めたいなとも思っているところです。ですが、そろそろ現実世界が忙しくなってきたので、もう少し作成頻度が下がると思われますので、そのあたり、気長に待って頂けたらなぁと思います。

2013/06/16

週末雑感 影響


昨日は梅雨らしい天気になり、わりとご機嫌な李花尺です。

さて、今回は私が作品を作るにあたって深い部分で影響を与えているものはなんだろうか、ということを考えていきたいと思います。「巡るは季節」や「朱と蒼」はそれぞれ題材とした小説がありますし、初期の数作品では和歌をもとにしています。これらは明瞭な「原作」がありますが、それとは別に、私自身のものの考え方や捉え方の由来というのはなんなんだろうか・・・ということを考えていこうという試みです。

さて何が一番影響を与えているか、それは実際に過ごした環境なのでしょうが、まぁ、それは説明しにくいものですから、よく見ていた・読んだものを列挙してみましょう。


小さい頃、小学校や中学校の頃はジブリをよく見ていたと思います。風の谷のナウシカ、天空の城 ラピュタ、もののけ姫。この辺りは結構な量の台詞をそらんじる事が今でもできると思います。これら以外も見てますが、そんなに覚えてないです。トトロもずいぶんと見たはずなのですが、いまいち覚えてないですな。影響のことを考えると、絵柄の面ではおそらくジブリの影響があるのかもしれません。
 逆に、ジブリ以外で覚えているアニメ作品・・・それこそ何度も見返したような作品はないです。
 リアルタイムで見ていたアニメとか何があるのだろう・・・と思うのですが、さっぱり出てこない。ポケモンもやってたと思うのですが、いまいち。あ、日本昔話も見てましたね。・・・田舎の風景・前時代的な景色が好きなのはこのためでしょうか?
 漫画ですが、これもほとんど見てない。one pieceぐらいですね、単行本が部屋にあるのは。ジャンプもマガジンもサンデーも立ち読みすらしてこなかったので、影響はアニメよりも薄いと思います。基本的に漫画的な要素が薄いのはこのためですかね。

さて、アニメ・漫画の影響の話はこれくらいにして、小説の話でも。
高校の頃、司馬遼太郎をずっと読んでいました。「坂の上の雲」をはじめとして、随筆、短編集などを読んでいました。彼の主人公に対するちょっと引いた視点で愛するという手法は好きです。尤も、それがどう影響しているのかというとよくわかりませんが。
 大学以降は世に言う「名作」と呼ばれるものをとりあえず乱読しているのが現状です。そのなかで印象深かったのは「川端康成」でしょうか。この文豪の表現の多様さと繊細さとその音が好きです。音というのは読んだときの旋律といいますか、流れというか、これがすばらしいのです。
 「罪と罰」。この名著には美しく純粋な女性が出てきます。人間の愚かさや葛藤が描かれていくなかで、その女性は非常に際立ち、印象に残っています。
 三島由紀夫の作品も圧倒的な美しさを持っていると思います。「巡るは季節」でも題材としましたが、彼は本質的なことを巧みな修辞でもって表現することにものすごく秀でていると感じています(何をえらそうなこといってるんだか)。
 後はムーミンと宮沢賢治が好きですね。ムーミンの日常のおおらかさやちょっとした風刺が小気味いいですし、宮沢賢治の不思議な世界は私を魅了します。

こうみると小説は「美しいとは何か」を私の中で形成するのに役立っているのだと思います。ちなみに小説も基本的には読み返しをしないので、特定の作家の作品の特徴をまねるには至っていないと思います。また、人の心の動きの繊細さなども小説から知らず知らず学んでいるのかもしれません。
一方で、推理小説は全くと言っていいほど読まないので、伏線とか謎解きとかそういう小説としての展開の緻密さが問われる部分についてはほとんど吸収していないと思います。

と、まぁいろいろと書きだしてみました。
私が人間が持つくらい部分をあまり描かないのは、現実の世界ではいやというほどそういった部分とつきあっていかなければならないのに、わざわざ「幻想」の世界でもそんなことを持ち込まなくてもいいじゃないという思いが多分にあるためです。そしてその対となる部分、描いていく部分というのは「美しさ」であり、それはジブリや様々な小説から影響を受けながら、李花尺のなかに形成されたものなのかも知れません。

2013/06/08

週末雑感 物語の手法


どうも一週間ぶり、李花尺です。
色の名前が一段落ついて、ちょっとのんびり落書きをしています。

さて、今週は物語の作り方の話でも。
 もちろん、正解がある訳ではなくて、これまでもいろんな手書き作者さんの手法が紹介されていますが、それぞれが一つの解だと思います。例えば、東方見聞録というサイトには「制作の秘訣」が述べられています。なるほどなぁと感心するばかりですね。有名でしょうからご存知の方も多いと思いますが、面白いサイトですから、まだの方はのぞいてみると発見があるかもしれません。
 で、私はこのブログでちょくちょくとそれらしいことを書いてきたと思うのですが、なにぶん漠然としていると自分でも感じますので、すこし体系だってお話したいなぁ・・・というよりは自分で一度言葉にしてみようと試みたいと思います。

着想・構想

物語の構想にまず必要なのは、「組み合わせ」を作ることです。「東方」というカテゴリーと「何か」を組み合わせる事からはじまります。その「何か」の意外性が最終的に評価されるか否かのポイントになってくると思います。では「何か」をどこから引っ張ってくるのか。それは作者の日常でもいいですし、読んだ本でもいいですし、辞書を引いて適当な単語を探してもいいです。ちなみに私はよく一つの(あるいは複数の)言葉から物語の構想を始める事がよくあります。いわゆる物語のキーワードを設定してそれを軸にして物語を紡ぐ、というやり方ですね。「何か」を選んだらあとはそれに適当な登場人物の核(主人公)を決めます。ここは「べた」な組み合わせでも良いでしょうし、あるいはあえて正反対な組み合わせでも良いでしょう。
 「何か」をあえてどこかから引っ張ってこない方法もあります。例えば、東方の登場人物の設定を掘り下げていき、その設定のもつ意味を考える方法です。すなわち、まずは主人公を決めて、その主人公に内在する「何か」を探していくという方法ですね。結局、組み合わせが必要なことには変わりがないので先に挙げた方法と本質的には同じといっていいでしょう。

制作

 物語の核となる言葉と人物が決まったら、実際に会話を組み立てていきます。下敷きとなる物語がある場合でも、言葉から物語を作る場合でも、共通するのは登場人物にらしさを与える事が大切だと思っています。その「らしさ」というのはどこからくるかですが、私は「作者」だと思っています。当たり前なのですが、作者が人物になりきって、そこで会話をするというのが私の物語作成の手法です。二次創作という性格上、原作・様々な作品から作られたキャラクターのイメージというものが「外」に存在します。が、それを意識し過ぎると、そのイメージに引きずられた言葉しか出てこなくなります。原作とは別に下敷きとなる物語がある場合でも同じ事です。もちろん、完全に下敷きをトレースするのもありですし、パロディとして完成度を高めるということとは別の話です。で、作者がその人物に「なりきる」わけですが、実際のところはなりきるというよりも、自分のなかの一部を切り取って、その人物とするというほうがより正確な表現になると思います。もちろん、登場人物がすべておなじ李花尺かというとそうではなくて、より感情的な李花尺・より理性的な李花尺、理系な李花尺・文系な李花尺など、自分の中のどの部分を強調するかによって違います。一つ前の会話に対して、置かれている状況に対して複数の考え方をすることで、登場人物たちの発する言葉は自ずと違ってくるのです。
 どうしたらそういったことができるようになるかは知りません。いろんな考え方を身につけるにはいろんな人にあったり、いろんな本を読んだりするしかないでしょうね。

 で、実際にどうやって物語を作っていくかですが、例えば、登場人物と「なにか」をつなげる端的な会話、あるいは発言を一つ考えます。そしてそれが自然と発せられるような状況を考えます。そしてそこでの自然な会話を考えます。これが一つ目。もっと単純に、「なにか」を念頭に置きながら、当たり障りの無い状況(あるいはちょっとした事件)から登場人物に適当な会話をつくり、そのなかで「はっ」とする言葉が出てくるのを待ちます。これが2つ目。基本的にはこの2つの手法を用いて物語を作っています。主人公以外は、その時に描いてみたい人物を適当に選んでいます。あるいはよくある組み合わせ、無理の無い組み合わせを採用します。そこは外の設定に素直に従うことが多いです。この「無理のない」というのはひとつの目安ですね。
 私の場合、下書きがあるといってもそれはストーリーの流れを拝借するという意味ではないので、基本的には物語の展開は自前です。とある会話・発言が先にある場合は少なく、あっても物語にひとつぐらいです。ですから、つながりのない会話・発言のセットをつないでいくという展開手法はあまり採用していません。ですから、最低限の設定と背景と状況から適当に会話が広がって、人を巻き込んで、という展開手法をとっています。
 そしてある意味致命的なのが、面白くするという努力をほぼ放棄していることでしょう。面白い物語というのは、抑揚があってしかるべきである(例えば障害があってそれを乗り越えるべく努力する)と考えるならば、あまり適当な作り方とはいえないかもしれません。ですが、不意にだれかを会話に参加させることは可能ですし、ふと目をやった先に花があってもいいかもしれません。小さな抑揚の種は世界に無限にあって、それを拾えば、そこには小さな花が咲いて、それを喜ぶ人は多少なりとも存在すると私は思っています。



つらつらと書いて来ましたが、あまり体系だって説明できてないですね。というよりも書いてみてわかったのですが、どうやら体系だった理論にもとづいて物語を作っているわけでは無さそうです。方法論を学べば物語ができるか、といわれたら首を傾げます。もちろん、「伝わる」かどうかは別でしょうし、そこには一定の法則があるのは間違いないでしょう。そういった書籍を読んだことがないので分かりませんが、結局、こいつはよくわからんまま、物語をつくってるのだなぁと思ってください。

長い文章を全否定する言葉で締めるあたり、いけすかないやつですね。

2013/06/02

色の名前 4 【後書き】

まずはちょっとした連絡。
現在、コメント欄の解放の仕方について試行錯誤が続いております。これまで特にコメントを残す事に制限はありませんでしたが、すこしスパムらしきコメントが増えたので、少し前から、文字認識と管理者による承認をコメント表示のために必要なステップとしました。が、管理者による承認は結構面倒くさい(主に私が、ですが)ので、現在、管理者による承認は必要なくなっています(文字認識は必要です)。どこに落ち着くかわかりませんが、また様子を見ます。右カラムの「コメントを残される方へ」というところに最新の状況を記しておりますので、コメントを残される際に確認してくださると助かります。


さてさて、色の名前が着陸しました。
リメイク+拡張版でお送りしました本シリーズですが、まぁ、連想ゲームみたいなものです。「色」という言葉からいろんな物語を紡いでみた、そういったものです。

 「色」という言葉は本当にいろんなところで使われていますね。今回は触れませんでしたが、素粒子学の世界でも色をつかって表現する事があったように思いますが、さすがにそれは私の理解を超えるので扱っていません。四話でも「十人十色」という表現を使いましたが、人のもつ性質の違い、これも色という言葉で表す事がありますね。
 遠い記憶に、エスキモーは雪に関する言葉が豊富なんだというものがあります。これは彼らに限った事ではないですが、必要であれば、人間の外界を認識する力というのは結構鋭敏になるみたいですね。数マイクロメートル(記憶が怪しい)の凹凸を見分ける事ができる町工場のおじさんとかもいらっしゃるとか。それはもちろん色に関してもそうだと思います。そんな事を妹紅には述べてもらいました。実際のところ、どうなのでしょうね。今の季節、竹林にとっての秋を迎え、彼らはずいぶんと老いた色合いをしています。そのうち、さめるような若々しい緑の竹をみる事ができるでしょう。梅雨の時期が楽しみですね。私はそれ以上の竹の色合いを認識できませんが、きっとそこで暮らしてゆけば、なにかしら見えてくる事もあるのだろうなぁと思います。ミスチーは音で対抗していますが、果たしてどうでしょう?乾いているか、しけているか、のほうが竹の状態より大きな要素になりそうですけどね。
 藍はちょっと調子に乗ってしまいまして、いたく妖艶な感じとなりました。まぁ、そんな夜もあるでしょうよ・・・ということで、許しておうせ。いや、傾城の九尾なんで・・・、はい。
 まぁ、冗談はさておき、割と藍と紫の抽象的な会話は好きだったりします。紫が最後、一日とて同じ日はない、と言っていますが、それはそれで大変な事だと思います。「巡るは季節」の紫、あるいは「朱と蒼」の永琳などはそうですが、長い長い一続きの歴史を生きるというのは大変な事なのだと思います。藍はそういう紫を尊敬していますが、それがすばらしい事とは限らない事を紫は霊夢(とそのうまれかわり)と、永琳は輝夜と接する事で感じていると思います。だから紫と永琳はかなり似ていると思います。お茶会したら盛り上がるかもしれませんね。

私たちは同じ様な日を繰り返し、そして感性を鈍らせ、「一年が早くなった」とぼやきます。でもそんな事はなくて、その日の天気、そして自分のおかれている状況、気分によって空の色(例えば夕日が顕著だと思います)は、毎日違って見えるのではないでしょうか。少なくとも私はそう考えています。


さて、これにてリメイク版を終わります。いかがだったでしょうか?つぎはニコ童祭に間に合えば良いなぁ・・・と考えていますが、こればっかりはどうでしょうね。