2014/12/27

大掃除

どうも、李花尺です。

年末です。今、大掃除をしています。掃除を始めるとなにやら「スイッチ」が入って妙にこだわってしまうことがままあります。そして、突然スイッチが切れてどうでもよくなることも少なからず起きます。そうすると家は綺麗になったところとそれほどのところのモザイク状になって新年を迎えることになるわけですな。うむ、もっと計画的にやらなければいけない気がします。

そんないい加減な大掃除が終われば新年です。皆様、良いお年を。

2014/12/20

ワンドロ

どうも、先日の寒波は大変でした。風がすごかったですね。


さて、「ワンドロ」というのがあります。お題をもとに1時間で絵を描くというやつですな。twitterではその絵が流れてきたりします。・・・で、こういうのにも何度か挑戦したりするのですが、私にはものすごく難しいものでした(で途中で諦めてやめている)。どうも制限時間があることよりも、一枚の絵でいろんなことを説明するのが難しいと感じます。手書き動画をつくっている身からすると、絵というのは物語の一部であって、物語そのものではないわけです。その前と次の絵があるわけですな。ですから、一枚だけ「絵」を描くというのがものすごくむず痒い感覚に陥るのです。こればっかりはどうしようもないですね。大胆で観念的な構図とか、ポスター向きというか、一枚絵で迫力のある絵を描ける人に憧れますね。そういうことが出来ないので。

そうそう、次は久々にとともシリーズで、地底の忘年会をお送りする予定です。

ではでは。

2014/12/13

動物

どうも、雪が降る季節となりましたね。李花尺です。

最近はニコニコ動画では動物の映像を見ていることが多いです。癒やされますね。金魚を飼っていたことはありますが、それ以上に大きい動物は経験がありません。犬と猫なら猫のほうが好きかも・・・。いや、やっぱり甲乙つけがたいですね。

ただ、私は生き物に触れる経験がほとんどないので、実際になにか大きな動物(犬や猫)を飼った時はものすごく緊張すると思います。そしてそれはきっと相手にも伝わるでしょうから、あんまり二人の関係はいいものにならないような気がします。。。犬さん猫さんにとっても、警戒されながら触られるのは嫌でしょうしね。近頃は、猫カフェなるものもあるようですし、そういったところで鍛えるのもひとつの手かもしれません。


猫とか犬とか暖かいんだろうなぁ・・・

2014/12/06

後書き 【ピアノのある風景】

11月に投稿できるといったはずが、なぜか12月になってしまいました。スミマセン。


 さて、これにてピアノのある風景、お終いです。幻想郷での録音に協力してくださったunderdogさんにはこの場を借りてお礼申し上げます、ありがとうございました。


・・・さる情景。

 夕暮れ時の深い 光の濃淡のなかでふとピアノの音が聞こえ、その調にさそわれて路地をゆけば、茜色に染まった教室で誰かがピアノを弾いている。夕日に照らされてピアノの角が眩しく光る。少女の影に気づいた彼女がふと手を止めて・・・


 そんな情景が描きたかった、描きたかったのです。・・・描けたかどうかはわかりません。光を描くのはとてもむずかしいですね。夕暮れ時のあの柔らかく朱色に染まった世界も、日が山の端に隠れて残光が残る青い世界も、とても美しいと思います。低く射す様な光が明かり取りから漏れてある点を温めている様子は素敵ですね。

 後書きらしいことを書くとするならば、霊夢さんを登場させると、他の登場人物を喰ってしまいますね。別段、霊夢さんに思い入れがあるわけではないつもりなのですが、彼女の持つ独特の雰囲気が周りを呑んでしまいます。なんだろうこの感じ、謎ですね。・・・ミステリアスな女性は素敵です。
 ピアノはこうして、寺子屋でいろんな人に弾かれる運命をたどりました。このお話はここ終わりますが、この風景はきっと続いていき、いろんな物語を作っていくのでしょう。それはきっと素敵なことだと思います。夕日の差し込む学校とピアノの音色がもたらす出会い、というのにふと懐かしいあこがれを思い出した李花尺なのでした。

あらら

先週はお休みしてしまってました。・・・というのも、下書きのまま、投稿したつもりになっていました。いかんですね、きっちりと確認しないと。さてさて、先週はこんなことを書いていました。


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愛読というほどでもないのですが、newsweek誌を 読んでいました。開いてすぐの世界の風刺画と一番後ろのTokyo E yeという外国人コラムが 好きだったんです。が、最近・・・といっても半年ほど前になってしまいますが、Tokyo Eyeが終わってしまいました。このコラムは東京に住む外国人のリレーコラムで、10人弱の外国 の方がそれぞれ感じたことを好き勝手に書いている感じでした。政治のこともあれば何気ない風景に関することまで、なんだかんだで日本が好きな外国人の視点というのがとても面白かったのです。なんでおわっちゃったかなぁ・・・ちなみにバックナンバーはこちらから読むことができます(Tokyo Eye)。コラムニスト李小牧さんの痛快な文章も、ブロンコさんの季節を感じさせる文章も、もう読めないのは残念です。思い返せば、コラムニストの方々は私よりよっぽど日本語が旨いですね、いやはや。

以上、ふと思い出したことでした。

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と、まぁ、こんな雑多な文章でした。

2014/11/22

紅葉

私の住むところでは紅葉が今、見頃を迎えています。この投稿を書いている11/22は快晴、絶好の行楽日和となっています。淡い青空と紅葉した山々が映えますね。

さて、水上勉作「櫻守」に曰く、桜は緑を背にしたほうが映えるのだそうです。紅葉もそんな気がします。黄色や紅色にそまった山々も、松や杉の濃い緑の対比がところどころにあることで締まって見えるように感じます。なんにせよ、モザイク状に鮮やかな色が配置されている姿はきれいなものですね。

紅葉狩りに行くと、まぁ滅多に居ませんが、紅葉した木々の枝を折ってしまう人が居ます。あるいは紅葉した葉っぱを採ってしまう人はもうちょっと多いかもしませんね。葉っぱを取るぐらいだったら、木のほうからしたら、どうせ落ちるものですからなんとも思ってないかもしれませんが、まだ付いているものですし、自然に落ちるに任せたいものです。以前、友人たちと紅葉狩りに行った時にきれいな落ち葉ばを拾っていたら、笑われてしまいました。 友人曰く、落ちてしまったら色がくすむんだから取ればいいじゃないか、と。友人は落ち葉を拾うことよりも景色(紅葉狩りに来ていること自体 )を楽しんでいるようで、私がちょっと下を向きがちだったのがおかしかったようです。「いや、葉を摘むのルール違反だ」と私が言うと、わけが分からないとまた笑っていましたけどね。

紅葉狩りもいろんな楽しみ方が出来ていいものです。

2014/11/15

晩秋の空

どうも、秋の深まりにお布団からでるのが億劫な李花尺です。

ずいぶんと寒くなりました。日中はまだそこまで寒くないですけどね。でも先日、遠くの山は なんだか白く薄化粧をしていました。それも日中には消えてしまいましたが。・・・雪で思い出しましたが、「色の名前」を造っているときに、ふと東方とは別に違うお話が頭に浮かびまして、それが今でも頭のなかに残っています。私はいわゆるネタ帳みたいなものを持たない、話の芽を書き留める習慣をつけていないので、ふとした思いつきはそのまま消えていくことが多いです。ただ、未だに頭のなかにいるということは、きっと私の中で形にしたい欲求があるのかもしれませんね。

そんなことより、はやくピアノの話を完成させたいのですが、どうも時間が取れず、とれてもなかなか筆が進まないので思った以上に苦戦しています。もう暫くお待ち下さい。本当は11月の頭には投稿できるとふんだのですが、 予定を大幅に過ぎてしまっています。これはいかんですね・・・頑張ります。


2014/11/08

宝塚

どうも、李花尺です。


2014年も残すところ2ヶ月ばかりですが、今になって宝塚歌劇団が100周年を迎えたことを知りました。宝塚歌劇といえば、twitterで「不美人の25箇条」のような教訓を目にしたことがあります。それよりも驚いたのは「清く正しく美しく」という標語が宝塚のモットーであることでした。これは100周年を知ったときに一緒に知ったのですが、いやはや宝塚の言葉だったとは。ちょっと宝塚のファンになりそうです。

「清く正しく美しく」。美しさというのは私が描いていきたい大切な題材ですが、そこに、「清く」と「正しく」を加えると、ずいぶんと若々しいですね。海千山千な大人が「正しく」を使うと胡散臭さがでるように思いますが、清さと美しさに挟まれると本来の「正しさ」の意味を取り戻すような気がします。この標語からは高潔で、無垢で、まっすぐに未来を見据える透明な目を持つ、美しい女性を見ることが出来ますな。本当に素晴らしい標語だと思います。宝塚おそるべし。

女性はかくあってしかるべきかな、とは思いますが、それだけでは世の中つまらないのかもしれません。それに、いざ清く正しく美しい女性の前にたったら、私は逃げ出してしうかもしれません。

2014/11/01

秋桜

薄紅の秋桜が秋の日の・・・どうも、昭和な李花尺です。

 休耕田をコスモス畑にしているところがいくつかありますが、案外背が高いですね。大人でもかくれんぼができるぐらいです。それに、それぞれ微妙に色合いや模様が違って個性がありますね。きれいな花です。なにより、秋桜は道端に一輪だけ咲いていることもあって、その生命力の強さや健気さが魅力です。

 コスモスについてちょっと調べてみると、キク科の植物で学名もCosmos cosmos。言われてみると葉っぱとかは菊っぽいですね。 和名は「アキザクラ」だと思います。桜はバラ科ですけど、まぁ、色合いとか似てますからよしとしましょうか。明治に観賞用として輸入されて、秋の季語として「秋桜」がその当時から用いられている様子。どうも「秋桜」と書いてアキザクラと和名として読む人より、当て字としてコスモスと読む人が多いような気がします。「コスモス」という響きは日本語に馴染みやすいようにも感じますね。シロツメクサ(和名)とクローバーだと若干クローバーを使う人が多いでしょうか。でも、ハルジオンのことをフィラデルフィア・デイジーや「Skevish」という人は殆どいないでしょう。そもそもハルジオンなんて、漢字で春紫苑と書くことができるなんて知らない人も多そうですね。私も昔は向こうの言葉を単にカタカナ表記したものだと思っていました。


 ま、うんちくはおいておきまして、コスモスが秋の風に吹かれて揺れているとなんとなく冒頭の歌を思い出してしんみりする李花尺なのでした。

2014/10/25

新幹線

どうも、秋晴れのもと、部屋にこもっている李花尺です。


とはいうものの、今週はちょいと新幹線に乗る機会がありました。大阪や東京はのぞみもひかりも全部留まりますし、人も多いですから、壮観ですね。一方、地方の駅は真ん中に通過用の線路があって、ひかりやこだまをのぞみがどんどん追い抜いていきます。そんな地方の駅のホームにいたのですが、向かい側のホームにこだまが停まっていて、それをものすごいスピードでのぞみが追い越して、そのあとゆっくりとこだまが発車して、そんなこんなしているうちに自分の立っているホームにひかりが入ってくる・・・。時速300km/hの乗り物がホームに立っている10分そこそこの間に3本も 4本もいったり来たりすると、なんだか私の中の「男の子」が、がぜん元気になります。運転手さんや車掌さんがものすごく格好良く見えてくるわけです(実際カッコイイのですし)。新幹線が入ってくるときの警告音や、停まっていたこだまが再び動き出す際のなんだろう、モーターかインバーターの起動音(?)とか、停車時のエアの抜ける音とか、抑揚を抑えた構内の放送とか、そういったものが私を刺激します。ここまで私の好きな新幹線の要素を挙げてみると、ずいぶんと音に偏ってますね。

ホームではしゃぐにはみっともない歳ですから、平静を装っていますが、やっぱりむりだったので、一枚だけ。

2014/10/18

秋空

朝晩の冷え込みが厳しくなってきました。寒暖の差が大きいのでティッシュの消費量が増えている李花尺です。


近頃は明け方には一桁に近い気温まで下がっているようですが、この間まで半袖でもいいような気候でしたから、タンスの中身の交換がまだ進んでおらず、 服選びに支障がでています。朝のひんやりとした空気は気持ちが良いのですが、まだまだ体は夏が忘れられないのか、気温差にびっくりしているようです。まだ朝霧が雲海のようになるには早いですが、そのうち霧の河が流れる季節が来るでしょう。先日は露がしっとりと降りてススキを濡らし、低い太陽の光を浴びてきらめいていました。河はゆっくりと流れ、山は霞んで遠く、水墨画のような淡い世界が広がっていました。秋の深まりを感じますね。

山々は紅葉が見頃を迎えているのだとか。北のほうはすでに冬支度になっているところもあるようです。この週末はいい天気ですから、どこか紅葉を見に行くのも面白いかもしれませんね。

さて、動画作成の進捗状況ですが、およそ2/3ほど終わりました。10月中か11月の頭には投稿できると思います。今しばらくお待ちください。

2014/10/11

4周年

どうも、先日4周年を迎えました。李花尺です。10月10日は東京オリンピックの開会の日だったのですね、知らなかった。東京オリンピックといえば、「世界中の青空を全部東京に持ってきてしまったような、素晴らしい秋日和でございます」という開会式。2020年にはどうなるのでしょうか。

さて、この1年はあんまり作品を出せませんでしたね。3作品しかありません。やっぱり一度離れるとなかなかペースが戻ってこないものです。忙しいのもありますが。

大学入学ぐらいから投稿したとすると、4年後には社会人です(私の話じゃないですよ)。社会人となると忙しくなるでしょうし、東方の世界に対する興味関心が 高いままとも限らないでしょう。そうすると、ニコニコ動画という一つの場所で4年もなんだかんだ言って作品を投稿し続けることは案外大変なのかもしれません。私はいつの間にか4年経ってしまったと思ってますが。

やりたいことや表現したいことはまだまだあるのに、それを可能にする技術と時間と根性がもう少し欲しいものです。

2014/10/04

彼岸を過ぎて曼珠沙華 の鮮やかな赤が土手を彩るとともに、次第にススキの穂が開き始めました。柿は鮮やかな薄黄に色づき、いよいよ秋の色合いも濃くなってきた今日このごろですね。

今週は近所に流れてる河の話をしたいと思います。その河は昨年、大きな雨がありまして、その影響で河川敷の草木が根こそぎ流されてしまい、今年の春ごろまでは荒々しい爪痕が残っており、砂利と土がむき出しのずいぶんと荒涼とした風景が広がっていました。夏になると徐々に草木が戻ってきましたが、そのほとんどがススキや葦といったものでした。以前はそれに混じってセイタカアワダチソウも生えていたのですが、どうやら勢いが良くない様子。ですので、今年の河川敷はずいぶんとススキの比率が高いです。私としてはススキのほうが好きなので、今年の秋は嬉しいですね。 セイタカアワダチソウは地下茎でも殖えるそうなので、増水で根こそぎ持っていかれることはないと思っていましたし、繁殖力も強いですから、今年は黄色い秋になるのかなぁと思っていただけに意外でした。植生の変化もしっかりと記録をつけていればよいのでしょうが、なにせ感覚的なので実はそんなに去年の秋と変わらないのかもしれません。ただ、ススキの野原がきれいな季節になってきました。

ところでセイタカアワダチソウも、もう少しおとなしい感じであれば、帰化植物としてそんなに嫌われなかったのかもしれませんが、なにせ目立ちますから、いやな外来種としてよく挙げられますね。 シロツメクサなんかはうまく溶け込んでいるような気がします。花輪をつくったり、四つ葉を探したりと、セイタカアワダチソウとは扱いがずいぶん違うように思います。ずいぶんと勝手なような気もしますね。

2014/09/27

わたくしごと

暑さも寒さも彼岸まで。すすきの穂が開き始めましたね、李花尺です。

ここでほぼ毎週、「散文」を書いてそれなりに経ちます。この週末雑感では、感覚的な内容を扱うことが多いですから、あまり論理的な文章ではないです。それに話題と次の話題の間にそれほどしっかりした関係性がないことも多々ありますな。また、同じようなことを言い換えて書くことも多いです。多角的なものの表現といえば聞こえがいいかもしれませんが、ものを伝えるという点においては冗長なことですね。

ここで散文を書き続けたためなのか、論理的なしっかりとした文書を書く能力が落ちてしまったように感じるのです。もっとも、今は以前より高度な文章を書く必要が出てきているので、昔のほうが論理的な文章を書く能力が高かったというよりも、成長していないだけかもしれませんけどね。


・・・こういう結局なにが原因なのかはっきりしない文章がいけないのです。でも、そんなのわかりませんよ。

という、愚痴で本日は終わり。

2014/09/20

本草図譜

どうも、先週はおやすみしました、李花尺です。


先週は3連休、ちょっと忙しかったので、おやすみしました。2週間ぶりという事になりますが、その間に私の近辺はずいぶんと秋らしくなりました。朝夕はめっきり涼しくなり、半袖では少し肌寒い様子です。季節の変わり目ですから、皆様、体調には気をつけてくださいね。


さて、世の中便利なものでして、著作権の切れた本をデジタルで手に入れることができます。青空文庫などが有名ですね。ibooksにも古い名著などをダウンロードできるのですが、面白いものを見つけました。

「本草図譜」

といいます。残念ながらibooksにはすべて揃っているわけではないですが、一部を見ることが出来ます。これ、いろんな草花の絵と簡単な説明が描いてあるだけのものなのですが、色使いとか配置が面白い。特に配置が面白いですね。図鑑というからにはその草花の全体像を描写する必要があるとおもうのですが、大胆に「よって」ます。もちろん、全体を描写しているのもありますけどね。切り取り方が秀逸なものが多い気がしますね。構図の参考になるのかもしれません。各ベージでいろんなパターンで草木が配置されているので、飽きません。

PCの壁紙に向いているかもしれませんね。

2014/09/06

河の話

どうも、ここにきて蚊に刺されることが多い気がしています、李花尺です。

 私は海のある小さな町に育ち、そこには大きくはないですが河が流れ込んでいます。その河口から1kmほど上流で、河はゆるやかな曲線を描いて瀬と淵を作っており、両側の河川敷と中洲には葦やススキが生い茂る場所があります。そこではもはや勾配と呼べるものはなく、雨と風のない日はほとんど水がとまっているように見えます。

海はどんなに穏やかでも小さな波がありますから、それに比べて河の静かなこと。かげろうが水に落ちただけで波紋が伝わっていきそうなその静けさは、本当になにか変化が起きるまで見続けなければいけないような気がして、少しだけ怖いものがありますね。

以前、川(と湖)で泳ぐのは怖い、という話をしましたが、こういった「止まった」感じが怖いのも関係しているのかもしれません。ただ、河が嫌いなわけではないですよ。海が親しみ深いのなら、河は畏怖の対象という感覚に近いのかもしれません。

2014/08/30

人混み

どうも、ずいぶんと涼しくなってうれしいのですが、どうも天気が悪いのでお米の出来が心配な李花尺です。

さて、今日はちょっとアウトレットモールに買い物に出かけていました。秋ものが出ているかと思ったら、夏もの最終バーゲンをやっていましたけどね。私は田舎者ですが、たまに都会(というよりも人混み)に行くのは嫌いではないです。いろんな人がいますからね。両手いっぱいに買い物ぶくろを持っている女性たち、手持ち無沙汰な感じのお父さん、カップル、ちびっこ、犬・・・。見ているだけで面白いです。
 あと、雑然とした人混みにはなんの統一感もありませんが、だからこそ、なんだか安心できる面もあります。田舎はどこかに知った目がありますからね。自分がだれでもなくなると言いましょうか、買い物をしている人Aになることができるのは都会ならではのことだと思います。
 かといって、あんまり田舎ほど美しさも感じないので、私にとって長居は無用です。都会と田舎、どちらにも良い点がありますし、どちらが好きでも構わないのですが、たまには都会(または田舎)に行くと、いろんな発見があって面白いと思っています。

 そのうち、都会ならではの「美しさ」を発見したいですね。

2014/08/23

無題

盆もすぎると夏も盛りをすぎた様子。
ところで虫達の夜のオーケストラはもう少し統制をとる役割が必要ではなかろうか。


さて、ピアノのある風景の2作目のコメントに

なんか、この世のすべてから野暮さを引いた作品みたいだね・・・。

というものがありました。この感覚の重要度はだんだんと大きくなっているように思います。以前は、何かしらの「発見」を主眼に作品を作ってきました。もちろん今でもそうなのですが、それにくわえて、野暮さと申しましょうか、無用なリアリズムを除くことが多くなった気がします。単に美しいと思う情景を綴っていきたいと思っているだけですが。
純白で穢れのないお姫様だけを描いたら味気ないと感じるのは仕方のないことでしょうけど、そこに美しさがあるのならいいではないか、という開き直りの境地にいつの間にか行き着いてしまったのかもしれませんね。

2014/08/16

甲子園

どうも、お盆休み中の李花尺です。

 夏といえば甲子園。なんだかんだで見てしまいます。内野ゴロ一つでもハラハラする高校や、併殺を華麗に決める高校もありまして、見ていて飽きませんね。昨今は投手の投げすぎが問題になっているようですが(NYヤンキースの田中投手の怪我の原因の一つにも挙げられれているようですね)、今年の先発完投よりも継投をする高校のほうが多いように感じます。球数が増えたから、酷使を避けるために交代というよりはピンチになったので交代、という理由が多そうですけど。 今年は雨の試合が多くて、イレギュラーなバウンドやボールが滑るなどのハラハラする要素が多いように思います。
 どこが優勝するかはわかりませんが、どのチームも歴史を重ねていくと思うと感慨深いです。

2014/08/09

実家

なんだかんだでお盆休みも近くなりましたね。雨のようですが。
どうも、李花尺です。

盆休みを控えて、今週はちょっと実家に関連する話題をば。
 実家の居間にはアクリルケースに入った日本人形が飾ってあります。ケースの中には小さなガラスのコップ(一輪挿しかな?)が置いてありました。それに少しだけ水が入れてありまして、まぁ、今思うと湿度の調整のために入れてあったのだと思います。幼い頃、母がケースの中のコップに水を足しているのを見ていて、どうしてそんなことをするのか聞きました。確か「お人形さんが飲むのよ」と教えてもらったと思います。「お人形さんは恥ずかしがり屋さんだから夜にこっそり飲むのよ」とも言っていた気がします。その当時、私は「なるほどお人形さんも喉が渇くのか・・・」と水のなくなったコップをみて妙に関心したものです。人形が夜にこっそりと水をのむことは不思議と怖くなかったですね。実家には神棚があって、毎日ごはんと水をお供えしていたので、そういうものだと思っていたのかもしれません。

もちろん実家に、その人形はきちんといます。今でも水を飲んでいるのでしょうか。

2014/08/02

どうも、昨日は住んでいる街で花火大会がありました。
今年は風がなくて硝煙で花火が霞んで見えました、残念。

さて、夏は虫取りの季節だったわけですが、しばらく虫取りをしないとどうもコツを忘れてしまっていてうまくできません。昔はセミぐらいアミがなくてもとれたはずなのですが。バッタは案外やらかいのでつまむ力を調整しないとおぞましいことになってしまいます。でもよく思い出してみたら、昔もひどいことしていたような・・・。その点、甲虫は硬いからいいですね。捕まえやすいです。


というのも、先日、夜道(となりは山)の街頭の下にクワガタを見つけました。かっこいいですね。世の中の少年たちは夏休みです。
 

2014/07/26

ピアノのある風景 02 あとがき

さて、やっとこさ第二話を投稿できました。

 それにしても話が進んでいませんな。・・・ともかく、ピアノは学校(寺子屋)にいくことになったようです。1話の最後に慧音先生が登場しましたから、およそ皆さんの予想通りに進んだのではないかと思います。ふと思ったのですが、最近慧音先生の出番が多いですね。そのように感じます。

 慧音先生がピアノを早苗さんから教えてもらうわけですが、果たしてどれくらいの期間が経ったのでしょう。ちょっとわからなくて結局数字を入れるのをごまかしました。数日のような気もしますし、一年まるまる必要な気もします。簡単な童話のメロディーを弾くことを想像すると、それほど時間は経っていないと思いますよ。

 さて、この物語において早苗さんの内面はこの話の「きも」の部分なので、どこまで描くかはかなり悩みました。小説と違って、手書き動画は内面を描きにくいです。もちろん、雲みたいなフキダシで心情の描写をやってもいいのでしょうけど、なんだか格好が悪いような気がして私は避けています。置かれている状況を丁寧に描写して、あとは表情から読み取ってもらうのがいいかなぁと思っています。

 そうそう、本作では早苗さん、ずっと蛇のアクセサリーをしていません。これに深い理由はありません。内緒の話ですが、一番最初に描き忘れて、直すのが面倒くさかったこと、後からなんの説明もなく蛇を復活させるとこれまでつけていなかったことに理由が必要なので、それ以降、意固地になっているだけです。なんとまぁ偏屈者なんでしょうね。

 ひとまずピアノが落ち着いたところで、次はどうなることやら。描きたい情景があるのですが、表現できるかが不安です。では、また。(あとがきを描いたので、週末雑感はおやすみです)

2014/07/19

3連休です。あんまり関係ありませんが。


 21日は海の日ということで、少し海にまつわる話でも。私は海のそばで育った人間なので、基本的に海が好きです。川とか湖とかは苦手です。琵琶湖で泳ぐ人もいるそうですか、なんだか怖い。川も足をつけるぐらいなら気持ちいいですが、泳ぐのは少し怖い。海なら足がつかなくても、砂浜からだいぶ離れても平気なのですが、妙な話ですね。
 海で遊ぶと塩でベタベタするから嫌だ、シャワーを浴びないといけなくなるから川(淡水)のほうがいい、という人にもあったことがあります。なるほどそうなのかもしれません。でも海のほうが好きなのはどうしもようもありませんな。

 さすがに潮騒が聞こえるほど海が近いところに住んだことはないのですが、一度、海から数mの民宿に泊まったことがあります。静かにしていると、波がくだける音がしていました。焚き火のはぜる音と同じように、じっと聞いているだけで落ち着くものですね。

 皆様も一度、「海が聞こえる」ところに泊まってみてはいかがでしょうか。あ、この映画は見たことないです。

2014/07/12

セミが鳴き始め、日に日に暑くなり、先日はとうとう冷房のお世話になりました。すっかり夏ですね。

 清少納言曰く、夏は夜だそうです。確かに昼は暑いですし、あまり活動したくないですな。そういえば、今年は今の時期が、月が最も地球に接近するそうです。今日あたり満月ですから、少し夜空を見上げてみるのもよいかもしれません。ただ、私の住んでいる地域では梅雨前線がまだ居座っていますので、あまり天気は良くないようです。
 動画内で月を描くときはついつい満月にしてしまいがちです(楽ですからね)。一度、月の周期をしっかり勘定にいれて物語を作るのも面白いかもしれません。

2014/07/05

嵐が丘

どうも、李花尺です。
動画作成をがんばるとかいいながら、本を読んでました。

「嵐が丘」

この「嵐が丘」という言葉に対する、明確に思い出せる最初の接点は鬼束ちひろの同名の曲なのですが、でもこの曲名を聞いた時にはこの曲名が「小説」からきていることを知っていた気がするのです。それ以前にどこでこの小説と接していたのか、本当の意味での最初の接点は思い出せない。ただ、「嵐が丘」というタイトルだけを覚えているという妙な小説でした。そして漠然と、怖い印象をもっていました。

さて、実際に手に取ってみると、まぁ不気味な小説でしたよ。なんという狂気!だいたい序盤の夢の描写が怖すぎるんですよ・・・。彼女(キャシー)自身が嵐が丘の自然のような二面性(のどかで優しくておだやかな面と風の鳴る吹雪のような猛々しい面)をもっていましたし、序盤の夢の強烈な印象をずっと引きづりながら物語を読み進めていかないと行けない訳ですから、それはもう、美しいシーンだってその裏側に激しい嵐が見え隠れして私の心はもう、ぐったりです。
彼女は端から見たら我儘で、横柄で、かわいいだけが取り柄の勘違い屋さんで、最後はその自分の我儘がために気をふれてしまった女なのかもしれませんが、どうしても嫌いになれないのです。およそ私には理解しかねる考え方であって相容れないのですが、どうしても嫌いになれない。なぜなのか、今ももやもやしています。彼女が我儘だけれども真剣に生きて、だれかを騙そうとしたわけではない、二面性はあるのだけどそれは決して表と裏というわけではなくて、どちらも表のようなものだからかもしれません。
ヒースクリフもおよそ自分にまじないをかけてしまってはいるものの、彼女がいうように彼女と同じなのかもしれません(何言ってるんだこいつ?という方はまぁ、小説を手に取ってください)。彼の幼い頃にうけた仕打ちを考えればこそ、彼もまた嫌いになることはできない。でも彼がやったことはおよそ受け入れがたいですし、巧妙な手を使うことに関してはやはり悪魔だと罵られても仕方のないことでしょう。そもそも復讐になんの意味があるというのです?・・・彼が最後に自分の良き思い出をはからずとも目の前にみてしまったことで、彼ははたして救われたのでしょうか。彼が悪霊に取り憑かれたのか、幸せな幻覚をみたのか、私にはちょっとわかりかねます。ただ、最後は彼の望みは叶ったように思えます。彼の最後は彼の行った所行に対する罰であるとは、すこし思えないのです。

さて、彼・彼女の魂の行方に関して、私はこの物語の一部始終を聞いたロックウッド氏のもった感想に素直に賛成します。そんな気がするのです、私も。


兎も角、非常に面白い小説でした。私は彼・彼女のように「激しく」生きることができるほどのエネルギーをもはや持ち合わせていないので、少し羨ましくあります。そんなところに惹かれますね。人は人の持っているものがほしいのかもしれません。

2014/06/28

ニコ動祭

どうも、ちょいと忙しく過ごしているうちにニコ動祭が始まってしまいましたね。
残念ながら、私は今回、何も準備できませんでした。ちょっとだけ、企画に参加していますが。

さて、前回のニコ動祭では、比那名居天子が霊夢のうちに遊びに来るという話でした。そのコメントで、こんどは霊夢さんが天子のところに遊びに行く話を描いてほしい、というのがありました。あぁ、それも面白いなぁ・・・と思っていたので、そのあらすじだけ、作ってみました。

・霊夢さん、ふと思い立って天界にいってみる
・ちょいと迷子
・衣玖さんと遭遇
・お茶に誘われる
・女子会

・満足して帰る霊夢さん
・天子さん、それを聞いてちょっと怒る

こんな話をぼんやりと考えてました。衣玖さん、まだ描いたことなかったですしね。しかし、天界って、どんな雰囲気なのでしょうか。いまいちわかりませんな。衣玖さんは大人な女性のイメージです、勇儀姐さんと同じようなタイプでしょうか。

今週は比較的余裕があるので、がんばってピアノの話を進めていきたいと思います。
では。

2014/06/14

使っている言葉

あめあめ ふれふれ かぁさんが  じゃのめでおむかえ うれしいな・・・

どうも、李花尺です。梅雨ですな。

雨が嫌いな人は多いですが、そんなでもないだろうと思えるようになったのはいつの日か。さて、冒頭の歌ですがいい歌ですね。子供らしいというか、雨を素直に楽しんでいる様子が目に浮かびます。微笑ましいですな。

さて、「じゃのめ」なんて言葉、この歌のなかでしか聞いたことないですね。もちろん、使ったこともないです。流れからして「傘」なのは小さいころからわかりましたけど、いったいどういうものなのか、これまであんまり考えたことがなかったです。「たんすながもちあのこがほしい〜」という掛け合いのある、あの遊び。これも「タンスが長持ちする」のだと小さいころは思っていましたが、これって、「タンス」と「長持」で、長持は嫁入り道具の一つだったんですね。これは高校の国語便覧(だったと思う)を見て、気づいたのを覚えています。長持だなんてもはや資料館にしかないのでは?と思います。

 童謡のなかの古い言葉、どこか懐かしい響きがあります。どうしてなのでしょう。やはり、響きがいいからなのでしょうか?・・・私はほっておいたら、五・七・五調に収束していく古代人なので、しかたがないのかもしれません。なんだかそんな気がしてきました。

2014/06/07

つつじ

東北地方も梅雨入りしたそうですね、雨が恋しい季節になりました。

さて、以下はツツジとサツキの違いがわからない人間の戯言なので、話半分に聞いていいただきたい。

ツツジやサツキといえば、5月ごとに咲くものだと思っていましたし、実際、近所の植木も5月頃に咲いていました。ですが、最近になって鮮やかな花をつけているツツジがちらほらと。なんだか1ヶ月遅れで咲いているようなのです。そんなこと今までにあったのかなぁと思う反面、これまで特に気にしていなかっただけで、これが普通なのかしら?と思ったりして、自信が持てません。ま、どんよりとした天気とやわらかな雨に打たれるツツジもきれいなので満足はしているのですけどね。
 そういえば、あじさいも咲き始めました。いよいよ梅雨らしくなってきましたね。今年の梅雨はどうなることやら。気になるところですが、下駄で占うしか今のところ、方法がありません。

 ピアノの話はぼちぼちと作っていますので、もうしばらくおまちください。

2014/05/31

暑くなりましたね

さて、急に暑くなりまして、びっくりしている李花尺です。


今週はこれといって書くことはなし。たまにはそういう日もあるということで。

2014/05/24

初夏の陽気

どうも、部屋の掃除をしてご機嫌な李花尺です

 よい天気なので掃除をしたわけですが、そうやって動き回ると結構暑いもので、今は半袖一枚で過ごしております。初夏の陽気が気持ちいいですね。ただ、風はひんやりとしておりますので、まだ汗ばむほどではありません。そういえば、今年は私の周りのツツジやサツキの花があまり豊かでなかったように思います。そういう年なのでしょう。来年はきれいに咲くといいですね。

 さて、「ピアノのある風景」ですが、いつもよりコメントが多くついていますね。普段はマイリストと同じぐらいのコメントしかつかないのですが。ま、コメントをあまり必要としない動画を作っている自覚は多少はありますけどね。冒頭の「うぽつ」と最後の「乙」のたぐいのコメントの比率が多いのを、動画をそのまま楽しんでもらえたと勝手に解釈しております。
 一方で今作では、幻想郷において、「誰がピアノを弾けるか」、「ピアノの値段はどれくらいが適当か」、という所は意見が分かれるところだと思っているのでコメントも沢山つくのではないかと多少は感じていました。ですので、ちょっと驚いてはいますが、そんなに意外ではないです。作品の構想を練っている段階でリリカ、プリズムリバー三姉妹のことを全く考えなかった訳ではありません。ただ、彼女らは自由な存在であって、「社会」との関連性があまり高くないような気がします。ですので、今回はあえて触れませんでした。霖乃助は「誰も弾けないだろう」という旨の発言をしていますが、あれは基本的には店にやってくる人間と妖怪を念頭においた発言だとすれば、そんなに間違っていないような気もしています。ピアノの値段は適当です。ちなみに単位をあえて書いていないので、正確には全く意味のない数字ですよ。もちろん現在の日本円でちょっと高めの中古ピアノの値段を調べて参考にはしましたけどね。

 私事ですが、制作環境が新しくなりました。ですので、これまでの制作環境の移植やら、ニコ動祭への参加の検討やら、ちょくちょく次作の制作がストップしそうです。その辺り、気長にお待ちくださいませ。

2014/05/18

後書き ピアノのある風景

さて、新作を無事投稿できました。今回は3部作の予定です。

 私はピアノにかぎらず楽器全般を弾けないのですが、この歳になって弾けたらなぁと思うようになりました。ちょっと気持ちを落ち着かせるために、暇を紛らわすために、そして楽しむために。私の周りには存外楽器を使える人が多くて、それがちょっとうらやましいだけなのかもしれませんが。そういった私の個人的な思い入れが起点になっている作品です。早苗さんがピアノを弾く場面がありますが、これはtwitterで幻想郷での録音作業を募集したところ、underdog氏が快諾してくれましたので、氏が音源をとってきてくださいました、ありがとうございます。

すこし、制作について。
 香霖堂の店内を描くのは疲れました。雑貨屋あるいは骨董店の店内のごちゃごちゃした雰囲気を出したいのですが、膨大な書き込みに気後れし、そして私の脳内に上手くそのイメージが湧かないものですから、かなりこざっぱりした店内となりました。一応、コーヒーや紅茶など、これまでに描いてきた幻想郷で香霖堂で扱っている商品は置いてあります。そして今作、朱鷺子をはじめて描きました。わりと幼い印象ですね。霖之助さんはわりとドライな感じがします。ピアノに関しては弾いても減らないからなんとも思ってないのでしょう。そこにあるだけで価値のある性質の物ではないので、むしろ弾かれるべきだと思っているのではないでしょうか。
 早苗さんは最初の数コマはちょっとパーマをかけてますが、瞬く間にストレートに戻っています。私が鶏頭なのと、ちょっとやぼったい印象になるので、やめました。どうしてでしょうね。切れ長の目の方が好きだからですかね。早苗さんはどちらかというとかまぼこみたいな目の形をしているのですが、どうもこう・・・可愛いのですが、少し・・・。

ま、個人的な好みの話はさておき、ピアノを巡る日常を3部作でお送りします。慧音先生の登場で次はどうなることでしょうか。それではまた次回まで。

2014/05/17

紫色

まだ半袖には遠い雰囲気、先日の雨でまた少し初夏が遠のいた気がします。


さて、過ごしやすい日が続いており、ご機嫌なので先日散歩してました。菜の花は終わり、茂みの高さもましてきてタンポポも目立たなくなりましたので、「黄色」の華やかな彩りは少し減ったように思います。今は「紫」が目立っているように感じます。アザミ、藤、桐の花が咲いていますね。あ、そうだアヤメもそうです。アザミの濃い紫も、「藤色」に形容される淡い紫も素敵な色です。まだ若い草木の鶸萌葱と、少し落ち着いた苔色の斑点の中に紫の気品のある色が映えますな。
 紫と言えば、冠位十二階でもっとも高位の色。私としては紫というのはかなり上品な色だと思っているのですが、世の中には「欲求不満の色」という解釈もありますから、こちらだとお世辞にも上品とは言い難いですね。別に色に対する“解釈”を押しつけるほど下品な事はしませんが、「李さん、紫好きですけど、欲求不満なんですか?」と言われると(実際あるわけですけどね)、冗談とはいえそんな風に見られていた可能性にびっくりするわけです。

 昔、ショウブとカキツバタとアヤメの違いを教わった記憶があるのですが、忘れてしまいました。カキツバタといえば尾形光琳が有名ですね。簡略化されたカキツバタ一つ一つは平面的な絵なのですが、配置の妙によって奥行き感があるという、へんてこりんなふすま絵だと思っています。一度、お目にかかりたいものですな。


2014/05/10

禁色 その後

肌寒さが戻ってきて、今年は春が長いなぁとぼんやりと思っている次第です。
「春眠暁を覚えず」、良い言葉ですね・・・

 さて、先週は三島由紀夫作、「禁色」を読んでますよ、という話をしました。その後、ぼちぼちと読んでいまして(=新作の制作は滞ります)、先日読み終えました。さて、例によって読後は虚脱感が残ります。ちなみに私のぼんやりとした予想は裏切られましたが、違う意味で当たったような気もします。ま、これはどうでもよいのですが。さて、本作の主要な登場人物達はそれぞれが「完全性」を有しているわけなのですが、そのために全体として人工的な、抽象的なと申しましょうか、どこかガラス細工のような精巧さが感じられます。かといって、それが物語として不自然ではなくてむしろ当然であり、時折登場する「ありきたり」な人物との対比によってますますその完全性と美しさが際だつという、ある種、奇妙な納得感を抱かせるものになっていると思います。なんだろう、この表現のしにくさ。・・・興味があれば読んでみてください。

 さて、こうしてまた三島由紀夫の本が増えていったわけですが、実はすでにもう一冊の本がそのページを開かれるのを待っています。・・・ただし、三島由紀夫ではなくて、岩波から出ている「ドン・キホーテ」ですが。これはまたゆっくり読むことにします。5月中には次の作品がでる予定です。

それまで皆様も読書など、気長にお待ちくださいませ。

2014/05/03

禁色

世はGW、皆様如何お過ごしでしょうか、李花尺です。
ちなみに私はちょいと用事がありまして、GWはどこにも行けそうにありません。


 さて、先日東京に行くことがありまして、道中のともに三島由紀夫「禁色」を買いました。現在、行き帰りの新幹線で1/3ぐらいを読んだところです。いまのところ、美と男色と女への歪んだ復讐の話です。私はなぜ男色の話を抵抗無く、むしろ興味深く読んでいるのでしょう・・・我ながら不思議です。もちろん、「行為」そのものの描写など(いまのところ)無いですし、男色そのものというよりは男性の「美」を扱っているために、嫌悪感が出てこないのかもしれません。それとも本質的に自分がかの世界への興味をもっているのでしょうか?
 まだ本作がどうなるか私には分かりませんが(ぼんやりと“彼”の運命が思い浮かんだりしたりはします)、ちょっと気に入った一節があります。

あらゆる文体は形容詞の部分から古くなる

はっとさせられる文句だと思います。人間が語るべきことなんてそれほど多くなくて、古代ギリシャの哲学者から諸子百家・シェイクスピアや近松門左衛門によって語り尽くされていると思います。でも今日も新しい小説が生まれるのは、きっとこのためだったのでしょう。青春の甘酸っぱさなんて今も昔も本質的には変わらないと思いますが、環境というか、小道具というかそういった形容詞的な部分が変化していって、昔の曲の歌詞が古くさく感じるのと同じなのかもしれません。

そんなことにあらためて気づかされていたりします。

2014/04/26

たんぼ

月日が経つのは早いもので、もうすぐGWとなりましたね。
今年は春が長いといいましょうか、まだ半袖で過ごすには肌寒い日がつづいています。

そうはいっても山々は緑をとりもどして、徐々に色濃くなっていく様子。田圃にも水が張られ、田植えの季節がやってきました。この時期の農道は泥だらけになるので、車がすぐに茶色になってしまいますね。そういえばこの間、畑を耕耘機で耕している後ろで烏に混じってトンビがいっしょに虫をつっついていました。猛禽類といえど、背に腹変えられないのでしょう、ちょっと場違いな感じで、なごみますね。

先週の話にも通じるところがあるのですが、私は曲がった田畑が好きです。等高線に沿って緩やかにうねった畦があると落ち着きます。区画整備が進んで、効率的になった田圃も必要なのでしょうが、どうもよそよそしい感じがするのです(もちろん、青い苗が風にそよいでいれば、それだけで十分と言えばそうなのですけど)。ですので、棚田とかものすごく好きなのです。拙作、巡るは季節でも棚田を描いていますけど、あれは確信犯ですね。棚田と言えば、東南アジアの立派な棚田が有名ですね。個人的にはちょっと開きすぎかな・・・と感じます。もう少しこう、合間に木立が残っているとか、ちょっと平らなところに小さな祠があるとか・・・。

これからの季節、田圃に水がはられれば、そこに青空を映し、夕暮れには茜色に輝き、カエルの大合唱とともに夜を迎え、素敵なゆっくりとした時間が流れることでしょう。

いい季節ですね。

2014/04/19

田舎の風景


どうも、謎の肩こり・首こりにさいなまれている李花尺です。

・・・とはいうものの、この季節の風物詩みたいなもので心配には及びませんが。さて、私の住む地域も桜が終わり、萌葱の若い葉っぱが木々から芽を吹きはじめました。やっぱり春はいいですね。変化に富んでいて、いろんな発見がありますから。
 私はとんだ田舎に現在住んでいるのですが、古い町なので、平地の小さな集落でもうねった道が残っています。きっと小さな勾配があって、その等高線にそって作られているのでしょう。道淵の石で組んである小さな堀、畦の草花、小さなお社と大きな木。そういった風景が残っているのですが、そういった景色が大好きでして。今の季節は菜の花が咲いていて、明るい色合いですしね。
 私が高校生までなら、地元民かあるいは遊びに来たヤツということでそんな集落の中を歩いていてもそれほど怪しまれなかったでしょうけど、いまは完全に不審者扱いでしょうね、ざんねん。

 この田舎の風景好きになったのはいつのころのことか、定かではありません。ずいぶんと昔からだったような気もします。ちなみに、拙作中で田舎や自然の風景が出てくるのは私の趣味です。もちろん、お気づきの方も多かったと思いますが。

では、また来週

2014/04/12

タイトルの話

どうも、昼夜の寒暖差に体調をくずしそうな李花尺です。

先日、自分の投稿作品をだらだらと見ていたのですが、ふと、タイトルの付け方が気になりました。まずはちょっと列挙してみましょう

彼岸にて             雨の日の午後
天子、神社へ行く         色の名前
姫海棠はたての気になる写真    秋の訪れ
文の散歩             巡るは季節
アリスと上海人形         神子達の引っ越し
マミゾウの眼鏡          文の取材 秋
The last incident           冥界の秋
月下の白蓮            小傘と雨
恋の欠片             霊夢、夢の後
霧の大河             冬に咲く夏の思い出
春ですよ             文の取材
雪の音              東方ゾンビ禍
てゐと雛             色の名前・色の名前(続篇)
思い               朱と蒼
月の美しい夜に

基本的に助詞が入っていますね。the last incidentをのぞけば、助詞の入っていない「思い」という作品だけ。助詞、特に「の」と「と」が多いようです。「の」が入っているタイトルが多いと言えばスタジオジブリが有名ですね。「風立ちぬ」では始めて「の」が入らなかったとかなんとか。ジブリ作品は好きですし、影響しているのかもしれません。後は司馬遼太郎や三島由紀夫の影響もあるのでは、とふんでいますが。
 意外に登場人物名が入っているタイトルが多いですね。もっと少ないかと思っていたのですが・・・。もっとも、タイトルから考えてから物語を作ることもないので、タイトルを考えるときは「名は体を表す」を指針に則ることが多く、その法則から行けば納得です。でも個人的には「巡るは季節」とか、「霧の大河」とかのほうが響きが好きですけどね。ちなみに斜体・太字で表したシリーズ物は登場人物が含まれる率が低いですが、これはシリーズ物は登場人物に対して何か考えて作ることよりも、なにか概念的なテーマを軸にして物語を作っていることが多いからでしょう。
 そして春も秋も冬もあるのに夏がない。夏も好きなのですが・・・。いずれ夏をテーマにでもしましょうか。それにしてもなんでだろう??夏のシーンならいくつか有るはずなのですが。また、「東方○○」というスタイルも1回だけですね。割と二次創作界隈では一般的なタイトルのとりかただと感じているのですが。アマノジャクな作者なので仕方がないのかもしれません。
 
 これまで気にしたことが無かったですが、他の方もタイトルのつけかたも個性が出ていて面白いかもしれません。

2014/04/05


 昨日は春の嵐が吹き荒れまして、桜が散ってしまい、しょんぼりしております。


 さて、実は桜についてはちょっと昨年嫌な出来事がありまして、今年の春はちょっと憂鬱な李花尺です。私事ですがちょっとここに書き記しておきたいと思います。

 私が今住んでいる街が、30年ほど前に道路を作った際に街路樹として桜を植えました(記念植樹の碑があるので間違いないでしょう)。そして現在、桜はおそらく一番綺麗な時期にさしかかっていると思います。枝振りもよく、満開になれば本当にこぼれるほど花をつけていまして、春を楽しませてくれていました。当然、大きくなった桜は道路にまで枝が伸び、また、電線や街灯を覆い隠すようになっていました。そして去年の夏、電線にかかっている枝や道路にはみ出した枝が払われてしまったのです。
 枝は必要に応じて切り払われ、電線を避けるように凹型に整形された姿や、道路側だけ枝が伸びていないのに反対側には低く位置まで立派な枝が張っている姿になった桜が誕生しました。濃い桜鼠の幹に白茶色の切り口がいくつもある桜はなんとも痛々しく、それ以来あまりその道は使わないようになりました。
 自分たちが楽しむためだけに植えて、それも木が生長することも分からずに植えて、不都合が起きたら平気でその枝をはらい、なんとも不自然で不細工な形に切りそろえてしまう人間に木を植えることは控えて欲しいと思います。木はものを言いませんし、枝をはらったところで「死ぬ」わけではありません。あんまりな姿になった桜をみて悲しむ人もあまりいないのかもしれません。ですが、本当に「みっともない」まねをしてくれたものだと思います。
 どうしてこうなることが予見できなかったのでしょうか?もしかしたら道路を管理する人は桜を街路樹にしたら後々大変なことは分かっていたが、記念植樹という形で地元の人が植えるのを止められなかったのかもしれません。枝を切った人もつらかったのかもしれません。そんな風に考えるともやもやして憂鬱になるのでした。

 古くからそこにある立派な桜が大切にされる一方で、路肩に植えられたソメイヨシノがぞんざいに扱われる様を見ると、やるせない春ですね。

2014/03/29

東方登場人物俯瞰

どうも、春の陽気にあったまっております、李花尺です。

一気に春めいてきましたね。先日は久しぶりに天気が良く、一気に暖かくなりました。堅かったコブシのつぼみもずいぶんとゆるんで、咲き始めましたよ。
 さて、今日は私の中の東方登場人物の性格を俯瞰してみました。各人につき数十秒も考えていないので、厳密なものではありませんよ。色は私の中でのイメージカラーです。カラーの領域が大きいキャラクターは、いろんな考え方をする人物であると考えてください。逆に領域がちっさいキャラクターは芯が座っているか、あるいは私の中でどういう心の動きをしているか捉えられていない人物です。・・・いない人物が居るのはナイショですよ。

 縦軸は思慮深さと無垢さをとっています。思慮深い側に偏っている人物の発言はその言葉の後ろにいろんな考えが潜んでいます。無垢側に偏っている場合は、直情的であるという意味合いです。
 横軸の連続的・刹那的というのは、時間のとらえ方です。連続的になればなるほど、自分の過去を振り返ったり、過去と未来のつながりの中に自分がいることを意識したりすることが多いことを表します。逆に刹那的になると、「今」が重要であることを意味しています。

 自分でもつくっていて笑ってしまいましたが、紫色のイメージのキャラクターが第一象限に固まったのは何故でしょう?後、これは私の中で「そういうものだ」という考え方があるので、あたりまえなのですが、秋姉妹・古明地姉妹は原点対称、フランドール姉妹はx軸対称になってますな。フランドール姉妹も原点対称かなになるかと思っていたのですが、よく考えてみるとそうでもなかったです。確かに、秋姉妹・古明地姉妹は「でこぼこコンビ」な印象が強いですが、フランドール姉妹は「似たもの同士」な印象が強いですね。これも当然ですが、似たものは似たとこにきますね。「文・はた」ペアとか、「諏訪・神奈」コンビとか。もちろん、意識してそこに配置したわけですから、当たり前です。
 さて、それ以外はほとんど意識して作っていません。例えば、幽々子と幽香は原点対称の位置にありますが、これは偶然です。でも髪型にてますし、お互い花に縁がありますね。映姫さまvsぬえもまたおもしろそう。・・・これって、物語を造るときのなにかの参考になりそうな予感が、今更しています。軸を変えて作ったらまた違う関係を掘り起こせそうな気もします。

2014/03/22

後書き 彼岸にて

久々の動画投稿となりました、李花尺です。


 久々かつ制作時間も動画の尺の割にはかかったので、前半と後半で若干違うタッチになってますが、きにしない。でも後半は良い感じに勘が戻ってきたのではないでしょうか。ちなみにG線上のアリアをBGMとし選んだのは拙作、巡るは季節を制作中に思い出したからです。なんとも不思議な悲しさをもつ曲ですね。


 「彼岸」をテーマにして描くのは2度目でしょうか。本作には華仙が世話をしていた親猫が、子供を産んでそれで体を崩して、そのまま・・・というのが背景にあります。私素朴に猫や犬といった人間に深い関わりをもった生き物というのは単なる畜生ではないのではないかなぁ・・・と思っています。ですので、また逢えるといういう小町の言葉は単なる慰めの文句ではない、と思いますよ。小町についてですが、いつのまにやら彼岸の木陰で童謡や民謡を口ずさんでいる印象が強くなってしまいました。今日はかの猫にあって、そこでいろんな話を聞いて、子守歌が頭の中に回っていたのでしょう。竹田の子守歌自体は、ちょっと寂しい雰囲気が好きです。歌の云われは暗い時代を背負っていますけど。
 小町は感情の起伏が徐々に減衰していく妖怪達・同僚達を知っていると思いますし、どちらかと言えば達観した側の存在です。仕事柄、そうなっていったのだとも思います。一方で華仙はまだ「そちら側」にはいっていないのではないかと思います。それに、仙人というのは死にたくないという、いかにも俗っぽい理由を達することを願った人達の姿だと考えれば、「そちら側」に行きつくことはまた別ではないかなぁと思ったりします。華仙自身も、それを願っているとは思えませんし。彼女は動物と暮らしているようですが、動物が上手く描けるようになったら彼女の生活も描いてみたいですね。きっと「俗っぽい」感じだと思います。

 

 それにしても復帰作がずいぶんとブルーな作品というのも、なんというか、我ながら変なヤツだと思います。ま、今に始まったことではないのでお気になさらずに。さてさて次は誰を描きましょうか・・・

2014/03/16

印象派

どうも、春の陽気にさそわれてそぞろ出てきた李花尺です。


今日は「光の賛歌 印象派展」@京都文化博物館に行ってまいりました。

「印象派」という名前は、非常にわかりやすく、そして引きつける言葉ですね。我々の周りに存在する「物質」の総和としての世界を写し取るのではなくて、それを捉えた己の中の世界を描くという画家の立ち位置がよく現れている言葉だと思います。私は目が悪いのですが、眼鏡を外してみる世界というのはまさに印象派の絵画のような世界です。今回の展覧会にもモネが晩年、目を病んだ後の「睡蓮」が来ていましたが、それはモネが人生の終盤に見た世界そのものなのでしょう。
 印象派の絵画の、写実的な絵画とは違うなんとなく優しい雰囲気が好きです。なだらかな丘、運河にうつる並木の影・・・牧羊的な風景の絵画は優しい印象ですね。また、今回はノルマンディーの海岸を描いた作品も多く展示されていたのですが、波の荒々しさもうまく捉えられていて、さすがだと感じ入った次第です。私はこれまで「ほわんとした」印象派の絵画しか知らなかったのですが、今回はそれとは違った作品を見ることができて良かったです。

 一方で、絵画そのものに引き込まれることはあまりありませんでした。強烈な絵画は人を引き込む様な力があると思っているのですが、印象派の絵画というのはそのあたり、少し淡泊なのかもしれません。もちろん、淡泊だから駄目だというわけではないですけどね。もしかしたら、ヨーロッパの風景に馴染みがあまりないものですから、郷愁感と言いますか、そういったものが喚起されなかっただけかもしれません。

 たまには絵画鑑賞もいいものですね。でも、そんなことをしていたので、作品の投稿はまた来週以降にずれこみます。

2014/03/08

近況報告 復活(?)のお知らせ

どうも、ご無沙汰しておりました、李花尺です。


 さて、ここのところ少し近辺が落ち着きまして、余裕が出てきました。とはいっても以前ほど時間を取ることは叶わないですが。
 現在、ひさびさに「ととも」シリーズを制作中です。ただ、久々すぎて(といっても半年程度ですが)ちょいと手間取っていますので、投稿は3月の半ば位ではないかと思います。

 休業状態からは復帰しますが、まずは暖機運転、という所でしょう。それではまた。