さて、文の取材の続編です。
今回はハタテにちょっと焦点を当ててみました。
文の言動を写真で振り返る「花果子念報」を新聞として評価したのは文ぐらいで、やっぱり世間一般には「写真集」ととらえられたようですね。作中でもニトリは「文の写真集」というように表現してます。文はそれをいちいち否定しませんが、文ははたての新聞を「写真集」とは決していわないところは彼女なりの新聞づくりへのこだわりとハタテへの理解ではないでしょうか。
12月の頭、紅葉のさかりに「あぁ、紅葉を眺めながらお酒を飲む二人組を描きたいなぁ」と思い立ちました。後はちょっとリクエストもありまして(実はリクエストとは違う方向の作品になったので、ちょっと申し訳ないのですが)、本作を作るはこびとなりました。が、作り終えた今、こうしてあとがきを書いている窓の外は
雪です(笑)
あらら、現実の季節とはズレがうまれましたが、仕方が無いですね。
ところで、皆様は紅葉を見にいかれたでしょうか?私は田舎在住なのですが、杉林も多いので山が燃える様を毎日みることはできません。それでもちょっと場所を探せば、夕暮れ時、山全体が朱に染まり、柔らかな影を作って秋の深まりを感じさせてくれる所へ行くことができます。田舎の特権ですね。紅葉の名所というのは人が多くてゆっくりと自然と対峙することはできませんから、あんまり好きではないです。
文とハタテは良きライバルです。お互いが相手の長所を認めているけれど、それを面と向かってほめるのも恥ずかしいですから、悪態をついたりする、そんな関係です。そんな関係は端から見たら両思いなんだけど素直になれない恋愛と同じように映るのでしょう。ですから、ニトリはちょっとだけ文とハタテの関係を勘違いしています。別に二人きりにさせたところで、「あやはた」は起こらないです。
ニトリは文やハタテにとってちょっとお節介なところがあるけど、卓越した技術と面倒見の良さから、なんだかんだで離れることのできない大切な友達なのだと思います。後は二人の間の緩衝剤や情報伝達の役割を持っているのだと思います。
暗転で紅葉狩りの最初から夕焼けまで飛ばしましたが、この間、どのような会話が行われたか、私も気になります。きっと、ニトリや椛のこと、新聞のこと、持ち寄ったお酒の肴のこと、他の天狗のこと、これらをとりとめも無く、ぽつりぽつりとしゃべっていたのではないでしょうか?それほど密度の高い会話をしていたとは思えません。
「文の取材」にくらべてハタテがおとなしいように思えますが、その辺り、ニトリの考察はある程度正しいのでしょう。その辺りの葛藤はそこまで描いていませんが、自分は「文屋」だと思っていたのに、念写による写真集をつくる天狗であるとバカにされたらそれはへこむでしょう。おそらく、そういう自分の自分に対する認識と世間の目(からかい、ですけど)のずれがちょっと高飛車な性格を引っ込めさせているのでしょう。
いつになく雑多な後書きになりましたがご勘弁を。
年内はこれが最後の投稿・・・かもしれません。では皆様、よいお年を!
0 件のコメント:
コメントを投稿