2014/04/05


 昨日は春の嵐が吹き荒れまして、桜が散ってしまい、しょんぼりしております。


 さて、実は桜についてはちょっと昨年嫌な出来事がありまして、今年の春はちょっと憂鬱な李花尺です。私事ですがちょっとここに書き記しておきたいと思います。

 私が今住んでいる街が、30年ほど前に道路を作った際に街路樹として桜を植えました(記念植樹の碑があるので間違いないでしょう)。そして現在、桜はおそらく一番綺麗な時期にさしかかっていると思います。枝振りもよく、満開になれば本当にこぼれるほど花をつけていまして、春を楽しませてくれていました。当然、大きくなった桜は道路にまで枝が伸び、また、電線や街灯を覆い隠すようになっていました。そして去年の夏、電線にかかっている枝や道路にはみ出した枝が払われてしまったのです。
 枝は必要に応じて切り払われ、電線を避けるように凹型に整形された姿や、道路側だけ枝が伸びていないのに反対側には低く位置まで立派な枝が張っている姿になった桜が誕生しました。濃い桜鼠の幹に白茶色の切り口がいくつもある桜はなんとも痛々しく、それ以来あまりその道は使わないようになりました。
 自分たちが楽しむためだけに植えて、それも木が生長することも分からずに植えて、不都合が起きたら平気でその枝をはらい、なんとも不自然で不細工な形に切りそろえてしまう人間に木を植えることは控えて欲しいと思います。木はものを言いませんし、枝をはらったところで「死ぬ」わけではありません。あんまりな姿になった桜をみて悲しむ人もあまりいないのかもしれません。ですが、本当に「みっともない」まねをしてくれたものだと思います。
 どうしてこうなることが予見できなかったのでしょうか?もしかしたら道路を管理する人は桜を街路樹にしたら後々大変なことは分かっていたが、記念植樹という形で地元の人が植えるのを止められなかったのかもしれません。枝を切った人もつらかったのかもしれません。そんな風に考えるともやもやして憂鬱になるのでした。

 古くからそこにある立派な桜が大切にされる一方で、路肩に植えられたソメイヨシノがぞんざいに扱われる様を見ると、やるせない春ですね。

2 件のコメント:

  1.  桜という日本を代表する花を通して人間のエゴを見てしまうと、やはりがっくりするものがありますね…。もちろんただのエゴではなくて、様々な人間の思惑や考えの至らなさ、ありとあらゆるものが連鎖した結果なのでしょうが。でも、だからこそ「寂しい」と感じてしまいます。原因をエゴだけに持って行くことができなくて、どうしてももやもやとした気持ちだけが残ってしまいますからね。
     話は変わりますが、ちょうど今日自分も桜を見てきました。実際には趣味の寺社巡りのついでなのですが、やはり神社仏閣と桜の相性は良いですね。特に備中国分寺の、桜の中にすらりと立つ五重塔は美しく、桜はやはり日本古来の風景に馴染むものと改めて想いました。
     今日一日桜の美しさに見惚れその有り様を素直に受け入れていたせいか、この記事を読んでやや驚いてしまいました。ああ、こういうこともあるのか、と。でもおかげで桜というもののイメージが鮮明になりましたし、同時に日本人の心に桜というものがいかに息づいているか、ということを意識することもできました。桜が深く心のうちにあればこそ、より人を現す鏡となるのでしょう。そういう意味でも今回は勉強になりました。
     でも、桜だって見られるたびに憂鬱になられるとちょっと哀しいと感じているかもしれませんw。住吉大社あたりには桜がありそうですが…うーん、地元じゃないので分からない…。
     今年は難しそうですが、機会があれば「神社仏閣と桜」の組み合わせを堪能することをおすすめしますw。
     長文失礼いたしました、それでは。

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  2. 寺社仏閣と桜の組み合わせは確かに素敵ですね。京都の桜もすばらしいのですが、なにぶん人が多くて・・・。
     確かに今年の桜に対しては全体的に憂鬱な印象を受けていますが、もちろん、立派な桜をみたり、本当に満開になった桜を見れば、素直に素敵だなぁと思える程度ではありますので、ご心配なく。
     ちなみに桜と寺社仏閣も素敵ですが、個人的には桜と水面の組み合わせも捨てがたい魅力があると思いますよ。如何でしょう?もちろん、甲乙をつける問題ではないのですけれどね。
     滅多なことで桜の枝が払われることなど無いと思いますし、花見のしすぎで地面が「締まって」しまい、桜が弱ることが問題になっている桜並木もあるとか。桜は病害などにそれほど強くないそうなので、いたわっていきたいものです。

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