昨夜は月が綺麗でした。晴れ渡った空に満月が浮かび、黄金色に輝く月とぼんやりと紺色になった空。暫く眺めてたら飛行機がすぎていきました。
ふらふらと川辺に出てみればやっぱり月が川面に浮かんでいました。蒸し暑くはありましたが、不思議と気分は良かったのです。
で、思った事があります。いや、以前から思っていた事なのですが・・・
平塚らいてふという女性運動家の言葉に
「原始、女性は太陽であった。今は月である」
というような発言があります。高校の頃に耳に始めて知ったのですが、その当時からなにかこう、もやもやとした感じがあったのです。平塚女史の「月」とは他の光によって光る、自らが光り輝く事の出来ない存在を意味するのであって、月が太陽に劣るとか、そういう話ではない事は承知です。そして女性が他者の光を借りずとも、太陽の様に自ら光り輝く存在である事は私も承知なのです。が、どうも、こう・・・女性は月であるほうが、こう・・・魅力的だな・・・と今、思うのです。太陽は直視する事は出来ませんが、月は見ることができる。そしてそれは弱々しくはなく、闇夜を照らす暖かい光だと思うのです。昨夜の満月もアスファルトをぼんやりと照らし、私の影を作っていました。それは原始、闇の恐怖から人々を救ってきた光だと思うと、どうも、こう、優しい存在に思えてならないのです。雲に隠れておぼろな月、冴え渡る満月、妖しい三日月、そんな多彩な表情を見せる月こそ、女性にふさわしい・・・と思うのは私だけでしょうか。
そういう美しく、優しげな性質を女性に求める事が愚かな決めつけだと言われれば、しょんぼりするしか仕様がありませんね。
きっと、高校の頃から月を女性的に見ていた私にとって、平塚女史の言葉はそこだけを抽出するとどうもしっくりとこないものだったのです。そして、今もそうです。
月に何を思おうと、月は知った事ではないでしょうが、何かを思うのは大切だと思うのでした。今日も月は綺麗です。
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